西川悟平さん,音大編入できず”たねや”(和菓子屋)就職,『カーネギーホールデビュー』って本当?

嬉しいHaruharu

皆様、こんにちは。

この記事では、西川悟平さんが音大へ合格した以後の歩みがわかりますよ。

ニューヨークでのプロデビュー、そして、その後の活躍はいかに~?

それは、本当に信じられないストーリーなのでありまする。

 

こちらの記事は、西川悟平さんの生まれからのプロフィールを知ることができますので、よろしければ、ご覧くださいませ。

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西川悟平さん,プロフィール,15歳からピアノ, 音大合格,どうしてできたの? | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ



  1. 西川悟平さん:”カーネギーホール”で演奏って本当なの?
  2. 西川悟平さん:音大編入試験に3回失敗し浪人生活を送っていた!
  3. 西川悟平さん:和菓子屋「たねや」(大阪高島屋店の食品売り場)に就職
    1. 西川悟平さん:和菓子屋「たねや」さんに就職後にピアノは弾いていたの?
  4. 西川悟平さん:24歳(ピアノ歴10年目)1999年に「海外の有名なデュオピアニストの大阪でのコンサートの前座を務める
    1. 西川悟平さんが前座に決まった経緯は?
    2. 西川悟平さん:当日は、なんとショパンの『バラードOp.23-1』を演奏!
      1. 「バラード第1番 ト短調 作品23」ってどんな曲なの?
    3. 前座を終えた西川悟平さんにブラッドショー氏は何を語ったの?
  5. 西川悟平さん:1999年3月 24歳単身でニューヨークへ
    1. 西川悟平さん:ニューヨークでの生活は?どんな家に住んでいたの?
    2. 西川悟平さん:ブラッドショー氏からどんなアドバイスを受けていたの?
    3. 西川悟平さん:渡米後2か月でまさかの初コンサート!
  6. 西川悟平さんの恩師ブラッドショー氏がチャンスを掴んだきっかけは?
    1. 西川悟平さんの恩師ブラッドショー先生の言葉
  7. 西川悟平さん:初めてのニューヨークでのコンサートはどうだったの?
    1. 西川悟平さんは、ショパンの曲を1ページ飛ばしてしまった!
  8. 西川悟平さん:アメリカンドリーム!翌年2000年から定期的にカーネギーホールで演奏するように!
    1. 西川悟平さん:常にプレッシャーとの闘いだった

西川悟平さん:”カーネギーホール”で演奏って本当なの?

15歳からピアノを始めた西川悟平さんがニューヨークでプロデビューを果たし、カーネギーホールでの定期的なコンサートを開催したってことは本当なんですよ!

今から、これに至った経緯をお話ししていきますね~。 (^_-)-☆

西川悟平さん:音大編入試験に3回失敗し浪人生活を送っていた!

え~っ?そうなの?

実は、その当時、西川悟平さんは、短大から大学への編入試験を3回失敗し、浪人生活を送っていました。

この期間に、悟平さんは、ピアノを教えたり、ほかのアルバイトを掛け持ちしながら、イギリスをバックパックで回ったり、台湾でホームステイをして中国語を学んだりしていました。

さすが、悟平さん!行動力が半端ないですね~。

実は、西川悟平さんの小学校のときの夢は、『国際的映画スター』になることだったんです。

そんな夢溢れる少年だったんですよね。 ( ^^) _U~~

しかし、驚きます。その行動力には!

悟平さんは、世界中の人と友達になりたいという夢もあったので、その夢に向かっていったのでしょうね。

世界中の人と友達になるためには、英語だけでなく、中国語も、必要でしょうから、、、。

今、自分ができることに集中して着実に行動していくことができることって素敵ですね。

基本的にはバイタリティーが溢れる人ですね。

様々な人生経験は、音楽性に影響を与えますし、全てがプラスに働いていくと思いますので、いかなる時も前進することが大事ですね~。

しかし、そんな西川悟平さんも、自分がこのように安定しない生活をしていることで、家族を心配させていたことが気になっていて、就職することにしたのです。

西川悟平さんの家族思いの性格がよくわかりますね。 (*^-^*)



西川悟平さん:和菓子屋「たねや」(大阪高島屋店の食品売り場)に就職

就職する決心をした西川悟平さんでしたが、当時は、バブル崩壊後で大変な就職難でありました。

もう、ピアノで生計を立てるどころではなくなっていました。

親を安心させるために就職することにした悟平さんが選んだのは、なんと、和菓子屋の「たねや」さん。

「たねや」さんでは、準社員として働いていました。

悟平さんは、和菓子が大好き!

そして、もともと、人がとても好きな性格でもある!

ですので、純粋に接客業がしたいという思いもあって「たねや」さんに就職を決めたのです。

当時は、「就職できたことだけでもラッキー!」だと思ったそうです。

 

さくら

バブルの頃は、アルバイトでピアノを弾いてもギャラが割と良かったんですよ。

音大生のアルバイト先にもなっていたと思います。

近所にも、グランドピアノが置いてあるカフェとか結構あって、

私も、時々聴きに行っていました。

日常生活の中に、生演奏があったんですよ。🎵

 

西川悟平さん:和菓子屋「たねや」さんに就職後にピアノは弾いていたの?

「たねや」さんに就職後の悟平さんのもとには、悟平さんがピアノを弾けることを知っている人たちから、絶えずピアノ演奏依頼があったため、大小問わず演奏活動をしていたといいます。

皆から、「もっとうまい人は沢山いるけど、悟平くんが弾いてくれると何だか盛り上がるんだよね」って言われていたそうです。

なっち

これって、最高の誉め言葉だと思います!!!!

エンターテインメントの世界は、お客様が喜んでなんぼの世界といいますから。

言われてみたいですよね。



西川悟平さん:24歳(ピアノ歴10年目)1999年に「海外の有名なデュオピアニストの大阪でのコンサートの前座を務める

西川悟平さんが前座に決まった経緯は?

ある日、自宅にやってきたピアノの調律師さんから、悟平さんのピアノが、内部の金属まで消耗しているのを見て、そんなに練習しているならば、

ニューヨークのジュリアード音楽院を出た、有名なデュオピアニストが大阪コンサートをするから、その前座で弾いてみない?」

とお誘いを受けたそうです。

有名なデュオピアニストとは、故・デイビッド・ブラッドショーとコスモ・ブオーノの2人。

このお二人は、ニューヨークを拠点に40か国で活躍する名ピアニストです!

悟平さんは、このような経緯で、ニューヨークミュージックセンター日本支部主催のコンサートの前座として1曲(10分程度)弾かせてもらうチャンスが訪れたのですが、最初は断ったそうなんです。

ちょうど和菓子屋の「たねや」さんが年末年始の繁忙期で「時間がないから無理」であると断ると、すかさず、

「どこの世界に音楽大学を卒業してまんじゅう売るのが忙しくて

ピア二ストの仕事を断るアホがおんねん。ないのは時間じゃなくて自信やろ。

と言われたのです。

その言葉に、悟平さんは、クソっと思って、前座を引き受けることにしたのです。

いぶき

悟平さんは、売り言葉に買い言葉的だったと言っていますが、これは、本人の性格を知った上で、あえて、本人をその気にさせたいがために発した言葉でしょうね。

西川悟平さん:当日は、なんとショパンの『バラードOp.23-1』を演奏!

しかし、悟平さんは、緊張しすぎて手足が震え、途中で5回ぐらい止まりかけてしまいました。

でも、悟平さんは、どうにか、こうにか、弾き終えることができたのです。

さくら

ここで、超絶技巧を要するショパンのバラードを選曲したとにも驚きです!

和菓子屋のたねやさんが忙しい時期だったのに、、。

すごい決断です!弾き終えることができただけでも素晴らしい!

「バラード第1番 ト短調 作品23」ってどんな曲なの?

ミッキェヴェッ千の詩「コンラード・ワーレンロッド」という詩から着想されたと言われている第一番は、独特の叙述的な語り口が広壮な音の世界を織り成しているバラードです。

ショパンコンクール2021で話題となった沢田蒼梧さんの演奏でお楽しみください。🎵

とっても難曲ですね~。

こんな難曲を「たねや」の店員さんが弾くって、そのギャップ感がいいですね~。 (^^♪

話は戻りますが、シューマンは、ショパンに出会った際、この曲がショパンの作品の中で最も好きな曲だと述べたところ、ショパンもその言葉に喜び、「私もまた一番好きなもののひとつなのです。」と語ったといいます。

悟平さんが弾いたという曲は、そんなたいそうな曲なのでありました!



前座を終えた西川悟平さんにブラッドショー氏は何を語ったの?

悟平さんが「ショパンのバラード1番」を緊張で5回ぐらい止まりかけてなんとか演奏を終えた後、舞台で礼をしてから楽屋に走って一人でメソメソ泣いていると、、、、、、、

故・デイビッド・ブラッドショー氏が本番前に楽屋に来て、

「なかなかユニークな演奏だったね。君は心の中にやりたいことがいっぱいあるようだけど、鍵盤の操作をあまりよくわかっていなかったね。」

そして、続けて、ブラッドショー氏は、

「君は仕事は何をしているの?」

悟平さんは、

「日本のケーキを売っています。」

と答えました。すると、ブラッドショー氏は、

「それは、素晴らしいことだね。仕事があるのはいいことだけれども、それは君が本当にやりたいことなの?

と訊いてきたのですが、悟平さんは、

えっ?やりたいことも何も、こんなに不景気な時に、仕事があってラッキーです!

と答えると、ブラッドショー氏は、

「そう、それは素晴らしい! しかし、それは、一生きみがやりたいことなの?

と再度訊かれ、それでも悟平さんは、

「一生、仕事があればありがたいと思います。」

と答えた。するとブラッドショー氏は、3回目に悟平さんの目を見ていったのです。

「本当にやりたいことは何だね?今、君はピアノを弾いたでしょ。」

悟平さんは、そう言われて、顔が真っ赤っかになり、

「もし可能だったら、もっとピアノが上手くなりたいです。そして、もし可能だったら音楽を通して世界中を旅してみたい、そして世界中に友達を作ってみたいです。」

と、勇気を持ってブラッドショー氏に伝えると、ブラッドショー氏は、

「そしたら、今日からその準備をはじめた方がいいよ。君がもし将来、本当にそういった道に行きたいと真剣に考えているのであれば、いますぐ、ニューヨークにきなさい。

といい、e-メールアドレスを悟平さんに手渡しました。

その後、悟平さんは、e-メールアドレスを放置したまま、礼も出さずにというか、、、たねやさんでの仕事が忙しく、部屋に帰っては眠るだけの生活を送っていたようです。

友人たちには、ブラッドショー氏からスカウトされた自慢話ばかりしていたそうですが、ふと、ある時、行動を起こせない自分に気づいたそうです。

2~3か月たった頃、今頃連絡をするのも怖いなとおもいつつ、思い切ってブラッドショー氏に「覚えていますか?」とメールを送ったところ、すぐに返信がきて、

「日本人はビザなしで3か月間ニューヨークに来れるから、今すぐニューヨークに来なさい。」

しかし、それでもまだ悟平さんは、自分が変わることが怖かったそうです。

自分は、臆病者でひとりでは決心がつかず、友人に相談をしたと語っています。

日本人の友人は、皆、そんなニューヨークでやっていけるわけがないと言ったのだそうです。

そうしたところ、外国人の友人に、

「ダメだったら戻ってこればいい。」

と言われてようやく決心がついたそうです。

ダメだった時のことを考えるのではなく、ダメになってから次のことを考えればいいということは、わかっていてもなかなか勇気がいります。

だからこそ、自分の背中を押してくれる友人の言葉が支えになったのですね。

友人というより、親が子供を送り出す時の言葉みたいに感じ。 (*^-^*)

そして、私が感動したのは、ブラッドショー氏の素晴らしさです。悟平さんの一度演奏を聴いただけで、悟平さんのピアノへの情熱や表現したいことを聴き逃さずに感じ取り、それを本人にフィードバックして勇気づけてくれたのですから。

テクニック的なところは不完全でも、悟平さんのピアノに可能性を感じ取ったのでしょうね。

世界的に活躍している人は、人を見る視点が違うのだと思いました。

その人のパッションを感じとっているのですね。

悟平さんは、音大への編入試験に3回チャレンジしても合格できなかったのですが、ピアノへの情熱は人一倍だったのですから!



西川悟平さん:1999年3月 24歳単身でニューヨークへ

西川悟平さんは、わずかなお金(6万円ぐらい)をもってバックパックでニューヨークへ旅立ちました。そのお金は、ホームシックで国際電話代ですぐに消えてしまったそうです。

西川悟平さん:ニューヨークでの生活は?どんな家に住んでいたの?

西川悟平さんのアメリカでの住まいは、マンハッタンから車で20分、ブオーノ先生が持つ300坪の立派な庭付き邸宅でした。

寝るまも惜しんで早朝4時まで課題をこなし、昼間はブラッドショー先生の元に通ってレッスンを受けるという、とても充実した日々を過ごしていました。

西川悟平さん:ブラッドショー氏からどんなアドバイスを受けていたの?

ブラッドショー氏からは、テクニック的に優れたピアニストは沢山いる!もう一度聴きたいと思われるピアニストになるためには、一音一音、音色にこだわって練習するように!

というアドバイスがあったそうです。

ブラッドショー氏は、ピアノを始めた年齢が遅かったことに劣等感を抱いていた悟平さんに、ピアノはテクニックだけではないことわかってもらいたいという思いがあったのかもしれませんね。

でもその当時の悟平さんは、ブラッドショー氏のこの言葉の意味がピンときていなかったようです。

まだまだ、テクニック的なことへのこだわりが強かったのです。

華やかな曲が上手く弾けるようになりたかった時期なのです。

西川悟平さん:渡米後2か月でまさかの初コンサート!

悟平さんは、1999年 5月9日 ニューヨークに渡り2か月練習したところで、ニューヨークのリンカンセンターアリス タリー ホール (Alice Tully Hall)で弾くことをブラッドショー先生に勧められました。

それは、悟平さんは、ビザがなかったので、3か月したら、日本に帰らなければならなかったのです。

「リンカーンセンター」と言えば、メトロポリタン歌劇場やジュリアード音楽院が集まる施設です。

日本で言うと、サントリーホール並みの「音楽の殿堂」です。

悟平さんは、初めは、アリス タリー ホールがどんなホールが知らずに了解したのですが、その後に、ブラッドショー氏と下見に行くことにしたのです。

悟平さんとしては、「きっと、100人ぐらいの小さなサロンだろう」なんて思っていたら、2,000人弱の大きなホールであることがわかると、驚き、そして怖くなって、「僕はまんじゅう屋の店員ですよ。無理です。怖いです。」と、即、断ったのです。

梧平さんは、まだ、履歴書上では和菓子屋の店員のままでニューヨークに来ていたのです。

すると、ブラッドショー先生からの叱咤激励があったのです!

「ニューヨークには、お前より上手なピアニストは五万といる。世界中でこの舞台に立ちたいと思っているピアニストは、沢山いるんだよ。」といい、自分がどのようにチャンスを掴んできたのか話してくださったのです!

西川悟平さんの恩師ブラッドショー氏がチャンスを掴んだきっかけは?

それは、ブラッドショー氏がジュリアード音楽院卒業した20代の頃の出来事です。

「ラフマニノフ ピアノコンチェルト第3番」2週間後に控えたピアニストが突然病気になってキャンセルしたのです。

その代役として弾いて欲しいと頼まれ、弾けない曲だったにもかかわらず「弾けます!」と言って引き受けたそうです。

ここでは、尾城杏奈さんの演奏でお楽しみください。 (*^-^*)

その後、ブラッドショー先生は、2週間寝ずに死ぬほど練習したそうです。

本番前にあれ程緊張したことがなかったといいます。

結果は散々だったのですが、演奏が終わって一礼して直ぐに楽屋に戻ってメソメソ泣いていたところ、「拍手が鳴りやまない!」、、、という大成功に終わったのです!

それがきっかけとなり、ブラッドショー先生は、世界40か国で演奏するピアニストとして活躍をするようになったのです。

音楽ってミスタッチとかではなく、パッションなんでしょうね~。

自分では、間違えたこばかり気になってしまうけど、聴衆の反応は、違ったのですね。

きっと、とっても心に響く演奏だったのですね。

西川悟平さんの恩師ブラッドショー先生の言葉

100%準備ができないこともあるけれども、チャンスが来たら掴んでみなよ。

自分が完全にできるまで待っていたら、準備していたらいつになるかわからない。

何年もかかってしまう、いつまでかかるかわからない。一か八かやってみることだ!

もし、ステージで弾けなくなると思ったら弾けなくなる前に、気絶したふりをしたらいいんじゃないか?と提案されたのです。

そうしたら、メディアに、「情熱のピアニスト 日本から上陸 パッションのあまり失神!」と言って売り込んでやると言われたのです。

そういった気持ちでないと人生進んでいけないのかもしれないですね。

音楽に限らず、この考え方で進んでいくことは大事だと思います。

完璧なんてありえませんもの。



西川悟平さん:初めてのニューヨークでのコンサートはどうだったの?

その頃は、正統派のピアニストを目指していたので、バッハとかショパンとか弾いたのですが、

西川悟平さんは、ショパンの曲を1ページ飛ばしてしまった!

悟平さんは、その時に、「もう終わった!」と思ったそうで、それからは、開き直って楽しく演奏したそうです。

もう、この国に呼ばれることはないと思ったのだそうです。

演奏が終わりバックステージに下がった時、驚くべきことが起こったのです。

ブラッドショー氏が大喜びで悟平さんを抱きしめ、「おめでとう!」「素晴らしかったよ、そのごまかし方!」と言ってほめてくれたのです!

 

西川悟平さん:アメリカンドリーム!翌年2000年から定期的にカーネギーホールで演奏するように!

そして、すぐにスポンサーがつき、超一流の音楽家さえも憧れるカーネギーホールでの演奏会を開かせてもらえることになったのです。

これは、また、日本ではありえない展開ですよね。

ショパンの曲を1ページ飛ばしても成功という感覚が日本とは違いますね。 (*^-^*)

当時は、家に家政婦さんがいて、演奏会までは、運転手さんが送迎してくれて、「シンデレラボーイ」と呼ばれる程の幸運な毎日だったそうです。

そんな毎日は、2年間続きました。

西川悟平さん:常にプレッシャーとの闘いだった

初めてのコンサートで成功をした、、ということでしたが、それからも悟平さんは、常にプレッシャーとの闘いだったそうです。

ステップを進むにつれてプレッシャーも強くなっていく人生。

プロとしてステージに上がることのプレッシャーは、かなりのものですよね。

アメリカンドリームを叶えた後、それを維持だけでなく向上してしていく大変さを強く感じます。

頑張り過ぎの西川悟平さん、この後に大変なことが待ち受けていたのでした。

 

 

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