高橋幸宏(ゆきひろ)さんのYMO時代を振り返る,細野晴臣さん,坂本龍一さんを支えていた!

この記事では、高橋幸宏さんのYMO時代のこと。学歴、経歴や、YMOメンバーであった坂本龍一さんや細野晴臣さんとのことなどについて知ることができます。YMOの音楽は、どうして、世界中の人たちを魅了してしまったのでしょうか?それは、高橋幸宏さんと細野晴臣さんの功績が大きいと坂本龍一さんは語っているのです。そんなことも振り返ってみたいと思っています。




高橋幸宏(ゆきひろ)さん:学歴,経歴,自宅はアール・アールデコ調だった

1952年(昭和27年)6月6日生まれ、先日、2023年1月11日、70歳でお亡くなりに。脳腫瘍で嚥下性肺炎を併発されたそうです。ご冥福をお祈りいたします。

悲しみに暮れている方もいらっしゃるかと存じますが、高橋幸宏さんの音楽への貢献などについて振り返ってみたいと思います。

小学校5年生頃にはすでにドラムを叩いていたという高橋さん。

出身は東京都。

学歴は、立教中学校(現:立教池袋中学校)・立教高等学校(現:立教新座高等学校)卒業。

武蔵野美術大学を中退しています。

高橋さんは、1969年、17歳のときに、『学生街の喫茶店』などのヒット曲を生み出した「ガロ」のサポートメンバーに加入し、その後、「ミカ・バンド」、「サディスティックス」を経て、1978年にYMOのメンバーとして活動します。

当時の高橋幸宏さんの自宅に坂本龍一さんも驚き

坂本龍一さんによりますと、高橋幸宏さんの自宅は、なんと、アール・デコ調で、床が白黒の市松模様のタイル張りで、家具もアール・デコ調で統一されていて、ちょっとした美術館の中に住んでいるような感じだったといいます。

坂本龍一さんは、幸宏さんの家には、スタジオ・レコーディングに呼んでもらっていて、だんだん仲良くなって、自宅に遊びにいくことになって、同じ時代にこんな世界があるのかと相当驚いたそうです。



高橋幸宏さん:YMOメンバー細野さんと坂本さんのことをどう思っていたの?

高橋さんは坂本龍一さんのことを奇才、そして、細野晴臣さん(75)を天才と評していて、ご自身は凡人であると自認していたそうです。

そして、高橋さんは、自分は、奇才と天才をつなぐ緩衝材のような存在として、YMOで才能を発揮していったのです。

高橋幸宏さん作曲:YMO時代”ライディーン”が大ヒット!

YMO時代に高橋さんが作曲した『ライディーン』(1980年)は、大ヒットしたのです!

今でも、YMOの代表曲となり愛されている曲の一つです。

高橋幸宏さんは、坂本龍一さんとは同い年で、1学年下であり、若い時には一緒にお酒を飲みながら、毎日のように音楽談議を交わしていた仲でもありました。

いわゆる盟友なんです!

※下記は、高橋幸宏さんの概要です!なんと幅広く活躍されたいたことか。

〔音楽のジャンル〕 J-POP、ロック、ニュー・ウェイヴ、テクノ、エレクトロニカ。
〔職業〕 ドラマー、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー、ファッションデザイナー、俳優。
〔担当楽器〕 ドラムス、ボーカル、ギター、キーボード

高橋幸宏さんのファッションセンス

高橋さんは、音楽だけでなく、ファッションデザインもされていて、YMO時代には、衣装のデザインも担当していたそうなのですが、というのは、坂本龍一さんがあまりにも、服装に無頓着であったため、カッコいいのにもったいない!と思ったからだなのだそう。
高橋幸宏さんは、坂本龍一さんの1枚目のソロ・アルバムの時には、ジャケットのスタイリングだけでなく、髪型や服装についてもプロデュース。服装については、アルマーニに連れて行き、「これがいいよ」と決めてあげていたのです。
舞台芸術という視点も持っている高橋幸宏さんがいて、YMOの洗練されたクールなイメージが定着したのでしょうね。


YMO(イエロー・マジック・オーケストラ:細野晴臣さんからの提案で発足!

実は、このYMOは、細野晴臣(ほその・はるおみ)さんから提案されていたのです。

細野晴臣さんといえば、1947年東京生まれの音楽家。

1969年に、「エイプリル・フール」でデビューし、1970年に、「はっぴいえんど」を結成。

「はっぴいえんど」は、日本のロックバンドで、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂によって結成された、日本語ロック史の草創期に活動したグループの一つです。

YMOの発足は、伝説のこたつ集会だった

そんな細野晴臣さんから、ある日のこと、「こういうバンドを作りたい。」と、YMOの構想を聞かされた高橋幸宏さんと坂本龍一さん。

その時のことが、坂本龍一さんの著書『音楽は自由にする』の中に記されていました。

その著書によりますと、そのこたつ集会というのは、1978年2月に開かれました。

3人でこたつに入って、こたつの上にはみかんがあって、おにぎりも出されていたそう。

そこで、細野さんが、大学ノートみたいなものを出してきて、パッと開くと、富士山が爆発している絵があって、「400万枚」とか書いてあったそうです。

「イエロー・マジック・オーケストラ」という名前も書いてあったと思うと。

高橋幸宏さんは、高校時代から細野さんと面識があり親しかったそうです。

そして坂本さんと高橋さんは、毎晩のように遊ぶ仲でレコーディングも一緒にしていましたし。

そういう3人でしたから、YMO結成の時は、既に、音楽だけでなく、人間的な結束も強くお互いの信頼関係も構築されていたのです。



YMOのファーストアルバムは日本ではあまり振るわず

高橋幸宏さんと細野晴臣さんは、音楽のベースとして、ポップスとロックがありましたが、坂本龍一さんは、その当時、現代音楽にのめり込んでおり、ポップスとロックの下地はありませんでした。

そんな3人が共同でひとつの作品を創り上げていったのです。

それは実験的であったといいます。

YMOのファーストアルバムは、かなり革新的なものが出来上がったということですが、周りのミュージシャン仲間に聴かせても、「こんな冷たい音楽は受けるわけがないよ」などと言われたそうです。

その時、坂本龍一さんは、がっかりするわけでもなく、新しいスタイルの音楽を作っているのだという確信もあったといいます。

そんな曲を紹介致します。

「東風」:坂本龍一さん作曲

「中国女」:高橋幸宏さん作曲

「マッド・ピエロ」:細野晴臣さん作曲



YMOの初めての海外公演,LA(ロスアンゼルス)で受けてしまった!

その後、1978年8月に、LA(ロスアンゼルス)で初めての海外公演があり、そこで受けてしまったのです!

海外公演といっても、サンフランシスコで結成されたロックバンド「チューブス」の前座を務めることになったのです。

坂本龍一さんとしては、当時は、ドイツのクラフトワークとか、イギリスのニューウェーブとか、ヨーロッパの方に目が向いていたので、ニューヨークならまだしも、LAの人達にこの音楽がわかるのかなと思っていたそうなのです。



YMO:1979年8月に初めてのワールドツアーはロンドンから!

初めてのワールドツアーは、ロンドンから始まりました。

当時のロンドンは、パンクからニューウェーブへというところで、キングス・ロードには、ニューウェーブっぽいカッコいい若者が溢れていたそうです。

ファッションもビジネスも、たぶん世界一高感度に発信していたのが、その頃のロンドンだったと思うと坂本龍一さんは書き記しています。

そんなこともあり、3人は、LA公演の時よりもずっと気分が盛り上がっていたそうなのです。

公演では、YMOとしての曲を数曲演奏した後に、坂本龍一さんのソロ・アルバムからの曲「ジ・エンド・オブ・エイジア」を演奏したそうなのですが、その曲に合わせて踊り出すカップルがいたのです。

とってもカッコいいカップルだったそうで、「そうだ!これでいいんだ!」と思えたといいます。

ジ・エンド・オブ・エイジア:坂本龍一さんのソロ・アルバムの中の曲




YMOがロンドンの若者に受け入れられたのはなぜ?坂本龍一さんの分析は?

坂本龍一さんは、自分の楽曲である「ジ・エンド・オブ・エイジア」は、おそらく、ロンドンの人にとってみれば、キテレツ(とても風がわり)で、日本的な、何が異質な音楽として聴こえていたのではないかと推測しているそうなのですが、

それにしても、そんな異質な自分たちの音楽に反応してカップルが踊り出したという事実があるわけで、それは、YMOの音楽が、何らかの形で彼らに「わかった」ということなのだと理解したのです。

では、どうして、彼らは「わかった」のだろう?

坂本龍一さんは、丁寧に、音楽が「わかる」とか「わからない」とかいうのは、どういうことであるか、そこから、記述してくださっているのですが、

それは、民族音楽を考えるうえでも面白いところなんですが、簡単に言ってしまうと、文化的な背景が全くちがうところの音楽は、聴いてもほとんどわからない。

ロンドンの彼らがおそらくは、YMOの曲を異質な音楽として受け止めながらも、それを「わかった」、何か心や体を揺さぶるものとして感じたということは、ぼくらとの間にポップ・ミュージックという共通の基盤があったからだと思います。

YMOの音楽の源流の一つは、イギリスやアメリカのポップスです。

特に、細野さんと幸宏のふたりには、50年から60年代を中心とした膨大な量のポップ・ミュージックが、音楽データベースとして入っている。

そういうものが、ロンドンの観客が僕らの音楽に共鳴する土台になっていたのだと思います。

もし、リズムセクションの二人の中にポップミュージックがあれほどしっかりと染み込んでいなかったら、YMOの音楽が世界中の聴衆の耳に届くことはなかっただろうと思います。

~坂本龍一著『音楽は自由にする』より引用~

この記述を読んでみて、私は、坂本龍一さんが、細野晴臣さんと高橋幸宏さんの2人のことをとてもリスペクトしており、YMOが海外に受け入れられたことについても、この2人の功績が大きいという分析をされていて、そんな姿にとても感銘を受けたのです。

自分の足りないもので相手が持っているものが沢山あって、お互い補いあいながら、進んでいくって素敵だなって。



最後に、高橋幸宏さんから天才と思われていた細野晴臣さんの「悲しみのラッキースター」動画をごらんください

細野晴臣さんの声は低音で渋くていいですね。ギターももちろん素敵ですね。

2011年4月20日に発売された曲です。

高橋幸宏さんが天才だと言っただけありますね!

この記事をまとめていて思うこと

この記事をまとめていて、高校時代を思い出しました。

懐かしくて。あの頃は若くて元気だった、、、。

とっても活気溢れる時代だった。

でも、誰しも年齢を重ねていき、そして病気を抱えるようになって、その病気と共に生きていくことは避けて通れない事実だなって。

寂しいけれども、人生の後半は、そういった時をどう過ごしていくのかということを考えるようになりますね。

高橋幸宏さんには、生きた証となる作品が沢山残されていますので、その作品が財産となって語り継がれていくのでしょう。

当時の楽しい話題を記事にしていますが、私の青春時代だったので、輝かしい思い出しかないんです!

YMOの思い出は。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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