私は、大江千里さんと大西順子さんのファン🎵
この記事を読むと、大西順子さんがニューヨークでどんな生活を送っていたのかを知ることができます。超驚きの事実があります。
1998年に放送されたNHKの番組「トップランナー」でどんなことが語られていたのかを見ていきましょう!
大江千里さん&大西順子さんの1998年NHK「トップランナー」🎵
1998年は平成10年。
平成10年というと、まだ最近のことのように感じてしまうのですが、24年も前のことなんですね。(^^;
時の経つのは早いっ!!!
このNHKの「トップランナー」という番組の中で、ジャズピアニストの大西順子さんと大江千里さんの即興演奏はありました。
NHK総合番組「トップランナー」はどんな番組だったの?
NHK総合番組「トップランナー」は、当時の若者の人気番組だったと思います。
公開録画放送だったため、若者が多くスタジオに入っており、とても熱気がありました。(*^-^*)
私も、とても楽しみにしていた番組だったのですが、23時からの放送時間が私には遅くて起きていられなかったことが多かったです。(^^;
もともと私は、当時からあまりテレビを見ない生活をしていたのですが、就職を機にいっそうテレビから遠ざかっていました。
そんな私でも、この番組「トップランナー」で気になる人が出る時だけはチェックしていました。
益子直美さん(元バレーボール日本代表)&大江千里さんの2人がトップランナーと言われるゲストを迎えて深堀していく番組🎵
NHK「トップランナー」のゲストは、とっても魅力的でした。
そして、観客のみなさんが、熱心に聞き入っている様子や質問する様子を見るのも楽しかった思い出があります。
そもそも、この度、この番組のことを思いだしたのは、大江千里さんと大西順子さんの即興演奏動画がYouTubeにアップされていたから
ところが、この動画のアカウントが急に停止になり見ることができなくなってしまいました。
ファンとしては、とっても残念でしたが、それでも、その動画を見ることができた期間がありましたので、楽しませてもらうことができました。
その時、気づいたことがあったのです!!!
やっぱり大江千里さんは、その当時から、ジャズへの憧れが強かった!
丁度、この番組を大江千里さんが担当したいた頃、それは、NYへジャズ留学する9年前だったのですから。(*^-^*)
この番組の中での大江千里さんのピアノはどうだったかと言いますと、ジャズっぽいポップス調でしたが、とても真剣に楽しんで弾いていました。
その演奏を聴いて、当時の大江千里さんが、ジャズへの憧れがとても強かったことが伝わってきたことと、大西順子さんを前にしてまったく怯む様子もない姿にさすがだなと思いました!
ジャンルが違う者同士が認め合っての演奏をしていたように感じました。🎵
この時の、大西順子さんのブルース系のアレンジとピアノの音、リズムは何とも言えず良かったんですよ。
ぐっときましたね。(*^-^*)
もう、YouTube動画で拝聴することが出来なくなってしまったのですが、、、。
大西順子さんが『トップランナー』に出演された時の年齢は?
1967年生まれの大西順子さんは、31歳。
そして、1960年生まれの大江千里さんは、38歳。
38歳の大江千里さんは、まだまだ若輩者って感じがしました。(*^-^*)
自分がアラカンになってしまったのもあると思うのですが、当時の大江千里さんはとても子供っぽく見えます。
子どもがちょっと背伸びしているような雰囲気を感じさせるところがよいのです。
千里さんは、童顔なのでしょうね。きっと。
大江千里さんは、ニューヨークへJazz留学した時のことを『9番目の音を探して』の著書の中で、色々と事細かに綴ってますが、同級生の間で年齢のことが話題になったことがあったとき、自分が47歳であるといくら言っても誰も信じてくれなかったというのです!
千里さんは、なんと、同級生からは、20代から30代に見られていたのですよ。
わかるなぁ~!!!
やっぱり、ポップの時代の大江千里さんは、アイドル化していましたから。
昔の映像を見ると、歌いながら振り付けもありましたものね。(*^-^*)
個人的には、大江千里さんの歌は、CDで音楽のみで鑑賞するのが一番いいと思っています。
それは、純粋に音楽だけに集中できるからです。
どんな人だろう?という謎の部分があった時代の方が良かったな~と思っています。
いやいや、余談はこれぐらいにして、、、。
大西順子さんの演奏はどうだったの?
大江千里さんよりも大西順子さんの方が7つも年下なのですが、お姉様な雰囲気を醸し出していて、ピアノの歌い方には大人の色気!
鍵盤のタッチの違いから生み出されるひとつひとつの音の存在感が素敵なのですよ。
大西順子さんの音には、ひとつひとつに魂がある!
「ドキッとさせる音!」なのです。
指もしなやかですが、あんなに強い打鍵をして痛くならないのかしらと思ってしまいました。
演奏中に千里さんに目で合図をしている順子さんなのですよ。
「ウフフ」って感じで余裕で素敵だったのです!!!
見つめられたら恋をしそうです💛
そんな雰囲気があったんですよ~!!!!!
JAZZメンは、お互いの目を見て会話をしながら演奏を楽しむのですが、音楽で会話ができるっていいですね。
実際にライブハウスに行って聴くと、そういったやり取りの楽しさを感じることができます。
やっぱり、大西順子さんのライブは是非とも行きたいものです。!(^^)!
NHK「トップランナー」制作班編集の「トップランナーVOL.4」に当時の記事が掲載されていた!
この本は、わが市の図書館にありました🎵
最近、図書館の蔵書をネット上で検索でき予約もできる時代になってきましたのでとても有難いですね。(*^-^*)
大江千里&益子直美さんが大西順子さんにするどい質問をしている!
大江千里&益子直美さんが、なかなかナイスなするどい質問を大西順子さんにしています。
質問1 小柄な大西さんの演奏時の工夫は?
大江千里さんが、「小柄な大西さんが、演奏の時なんかは、どうやって合図を送るんですか?椅子の高さとか工夫するんでしょうか?」と質問すると、
大西さんは、
色々と椅子の高さは試しているんですよ。ちょっと前までは、結構高い所から身体のバネを効かせて、わっと鍵盤を手でつかむみたいのを研究していました。
その時はそれこそ、今使っている椅子のいちばん高いところにしていても、もっと高く、という感じで、電話帳を乗っけたりしていました。
・・・と答えています。
ピアノを弾いたことがある人であれば、このピアノの椅子の高さって、少し違うだけでも弾けなくなってしまうということは簡単に想像がつくことと思います。
フォームが違ってくるので、弾けなくなってしまうフレーズがありますよね。
大西さんは、そういったことで、ピアニストはアスリートと一緒であると語っています。
ホント、ピアニストだけでなく、楽器演奏する人ってアスリートですよね。(*^-^*)
質問2 大西順子さんのジャズ感は?日本人には無理なの?
大江千里さんが、「ステレオタイプな言い方ですけど、ジャズ、スイングは、黒人の血とかバックボーンから出てきた音楽で、やっぱり日本人には無理じゃないかと言う人もいますけど、大西さんはその辺のところどう思いますか?」と投げかけると、、、、
大西さんは、こう答えました。
ジャズは間違いなく黒人のものだと思っている。
ただ、最初はクラシックも、ヨーロッパのあるすごく狭い社会、宮廷とか、アッパーな人たちの中だけで行われていた音楽でした。
ウィンナー・ワルツなんかも、ウィーンに行って本物のウィンナ・ワルツを聴かないと、そのグルーブ感がでないとかいうように、要するに、全部民族音楽に土台があるわけです。
ジャズの場合は、それが黒人で黒人のものなのは、間違いがないんです。
でもクラシックも今は、日本人とか東南アジアとかの小さい国の人でも素晴らしい演奏家がいっぱいいるように、ジャズも黒人のものだけではなくなってきていることは確かですよね。
だから、日本人がやっちゃいけないってことは絶対にないし、やれないということも絶対にないですよね。
現に今、素晴らしい日本のミュージシャンもいっぱいいます。
〔トップランナー4 NHK「トップランナー」制作班・編 引用〕
大西さんの話を聴くと、音楽の歴史についても興味が沸いてきます。
ジャズだけではなく、どんなジャンルの音楽であっても、そのグルーブ感を出すのが難しいのは、音楽が民族音楽に土台があるからであることからなのです。
質問3 大西順子さん:スイング感をどうやって身につけた?
そして、益子さんが、「”日本人離れしたスイング感”というように言われていますが、そのスイング感というのは、どういうふうに身につけたんですか?」と尋ねると、
大西さんは、下記のように答えました。
これもまた時代時代によって人それぞれで、スイング感はみんな違うんです。
私は洋楽世代なんですよね。小学校のころからジェームス・ブラウンとかすごく好きで、聴いていました。だから、ジャズの中でもそういう系統、そういう感じのグルーブ感を引きずったタイプだと思うんですよ。
私の世代は比較的そういうタイプが多いですよね。
例えば、スイングって言っちゃうとジャズに直結してしまうんですけど、演歌にもあコブシとかあるじゃないですか。そういうのに近いと思います。雰囲気は。
コブシの回し方とかを結構研究するみたいに、自分なりのスイング感を確立していくことは可能だと思います。
〔トップランナー4 NHK「トップランナー」制作班・編 引用〕
なるほど、、、とってもわかりやすい説明なんですよね。
このグルーブ感って、音楽をするにあたって、すごく重要、肝となるんですよね。
大西さんが、「自分なりのスイング感を確立していくことは可能だと思う。」と話されたことに対して、私は、とても納得がいったのです。
そうか、自分なりでいいんだなということに気づくことが出来たのです。
時代時代で聴く音楽が違ってくるから、スイング感も違って当然なんですよね。
この番組を通して、大江千里さんは、大西順子さんから、とっても将来に役立つことを学んでいたんですね。きっと。
こちらの記事では、大江千里さんがスイング感やグルーブ感を出すまでの苦労を知ることができますよ。
↓↓↓
大江千里が幼少時から慣れ親しんだ河内音頭・盆踊りとジャズの決定的な違いと共通点‼️ | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net)
やっぱり、トップランナーの方たちの話を聴くって大事ですね。(*^-^*)
学ぼうという人たちに勇気やヒントを与えてくれる存在であると感じます。
大西順子さんは、自分の体験を通して得たことや実感していることを話してくださるのでとっても興味深いのです。
そして、前向きに努力していこうという気持ちにさせてくれる存在です!
大西順子さん:バークリー音楽院留学中のエピソード&秘話です
実は、大西順子さんは、ボストンにあるバークリー音楽院を首席で卒業(1989年)した実力の持ち主!
修学金がもらえることになったので、反対する両親を振り切ってアメリカ留学(3年間)したのです。
バークリー音楽院は修業年限の規定はなく、単位を取得すれば卒業できるのです。
留学中は、生活のためのアルバイトは一切せず、お金がない中、外に捨てられているマットレスを拾って使ったり、お店の裏側に置いてある牛乳を入れるプラスチックの箱などを持ち帰り、椅子やテーブル、クローゼット替わりにもして使っていたそうです。
毎日ジャズに没頭していたのですね。
大西さんは、貯金がなくなった時に、日本に帰ろう!という覚悟を持ってその日その日を生きていたのです。
スゴイ覚悟ですよね。
高校卒業したばかりのお嬢さんが、これ程の覚悟を持って留学するんですから。
でも、こういう覚悟ができるのも、日本という故郷があるという安心感からなんですよね。
卒業後は、日本に帰ると両親には伝えていたそうですが、日本には帰らず、ニューヨークへ向かうことに。
当然、親からの生活費の仕送りは終わり、自力で生活をしていかなくてはならず、大西さんは、ニューヨークでの演奏のチャンスを掴もうと努力の日々でした。
しかし、日本人の若い女性ということで、エントリーしても指名してもらえない日々。
でも、そんなことは当たり前だったそうです。
ニューヨークでは、ピアノを弾かせてもらうチャンスを掴むことから競争が激しいのが現実。
大西さんは、そんなニューヨークで、頑張って生きのびていくのです。
ライブ終了後のセッションで演奏する機会を狙って、若手メンバーで”上手いと評判のバンド”が出ている小さなライブハウスに通い詰めるのです。
しかし、なかなかチャンスを掴むことができずにいました。
大西さんは、手持ちのお金がなくなってしまい、もう無理だ~!!!と諦めて日本に帰る前日に、なんと、ステージに立つチャンスがやっと巡ってきたのです。
その時は、すでに帰りの飛行機もとってあったんですよ。(^^;
本当にぎりぎりのところでチャンスに巡り合ったのです。
こういったチャンスって、偶然かもしれないけれど、神様がちゃんと見ていてくれているのかしらと思ってしまいます。!(^^)!
すごい、こんな土壇場になってからの大逆転ですね!
このシーンって映画になりそうですね。(*^-^*)
大西順子さんの人生もドキュメンタリー映画にならないかな~。
ちょっと期待してしまうんです。
では、実際の様子再現していきましょう!!!!
それは、本当に、偶然にも、ライブハウスのピアニストが疲れたのか、ピアニスト自身が、「誰か、ピアニストはいないのか?」と会場に声をかけたそうなのです!
その時に、大西さんは、即座に手を挙げました!
もう、こうなったら日本人だろうが、誰でもいいという雰囲気だったそうです。
そして、大西さんは、初めてライブハウスで弾くチャンスを掴んだのでした。
そのバンドにとても気に入ってもらうことができたので、それ以後、大西順子さんは、そのバンドのレギュラーピアニストとなり、週2回演奏することができるようになったのです。
1回の演奏でのギャラは、50ドルだそうで、生活していくには十分ではなかったのですが、なんとか日本に帰らずに何とニューヨークに残ることができたそうです。🎵
大西さんは、その後、躍進を続けることに。
1990年から1991年にかけて、ゲーリー・トーマスやジョー・ヘンダーソン、ケニー・ギャレットなどのグループにピアニストとして参加したり、テレンス・ブランチャード、グレッグ・オズビーといったスター・プレイヤーとも共演するといった活躍です。
こんな濃厚な日々を過ごし、大西順子さんが日本へ帰国したのは、1992年のこと。
帰国した翌年の1993年 に、『WOW/ワウ』発売すると、それが、なんと、ジャズ・レコードとしては異例の5万枚のセールスを記録するといったことに!
1995年には、 出光音楽賞を受賞し、大西さんの躍進はさらに続いていったのです。
1998年にNHKのトップランナーとして出演している時の大西順子さんは、乗りに乗っている頃で、画面から、大西さんの表情からいきいきとした感じがとっても伝わってきていました。
「トップランナー」に出演した時の大西順子さんの目標とは?当時は何を語っていたのか?
この時の大西順子さんは、
とことん、もう本当にやめたって思うまでは、うまくなり続けたいと思います。
つまり、続けていくということ。
やればやるほど深いから、どんどん新しいことに気づいていって、また最初からやり直しみたいのが多いと語っていました。
山登りで例えるならば、まだ登り始めであると言っていました。
大西順子さん:大江千里さんからの「究極の夢はありますか?」の問いに、、
大西順子さんは、
死ぬ直前とかに、「ああ、結構うまくなったな」って思えたらいいですよね。ある程度満足できたらいいと思います。
・・・このように語っていました。
もう、この大西順子さんの言葉に、人生ってそういうものかな、、、と何故か共感できるものが私の中にもあることに気づきました。
大西さんとは、人生の深いところの話ができるような気がして、なんだか嬉しいのです!
さて、話は変わりますが、当時の大江千里さんは、どんな時だったのでしょうか?
それは、ポップスを続けていくことに対して行き詰まった気持ちを抱えていて、31歳の頃からニューヨークへの短期滞在を繰り返し自問自答していた頃。
ですから、きっと、大西さんの話を聴いて大江千里さんも色々と参考になることが多かったと思うのです。
人生、いろいろ、本当に色んな展開がありますから。
だから興味深いのです。
大江千里さんのことがもっと知りたい方へ
こちらの記事から、大江千里さんのことを詳しく知ることができます。
↓↓↓
こうしたお話しをじっくり聴くことができる番組っていいですし、
本として残っているのがとても有難いことだとこの度つくづく思いました。
私自身、調べながらとっても楽しむことが出来ました。
気になった方は、一度、この本「トップランナー4」NHK出版を手に取って
是非ともお読みいただければと思います!!
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
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