この記事では、大西順子さんがバークリー音楽院への留学を決心してから卒業しニューヨークで活動していく様子がわかります。
大西順子さん:バークリー音楽院留学までの道のりは?
大西順子さんは、ジャズの名門であるバークリー音楽院に留学をするために、乗り越えなければならないことがありました。
大西順子さんには留学にはお金の問題をどうにかする必要があった!
その当時のバークリーは、日本ではあまりまだ知られていなかったそうですが、大西さんは、親からお金を出してもらうことは期待できなかったので、バークリー音楽院の奨学金オーディションを受けたのです。
本人は、「たまたま奨学金がもらえた」と語っているのですが、
それは謙遜で、実力があったのでしょう。
奨学金で学費が免除されたことで、アメリカ留学が現実のものになっていったのです。
必要な資金は、渡航費用と生活費だけになり、バイトをしてもよい高校だったため、大西さんは、ディズニーでバイトをして渡航費用を貯めたそうです。
バークリー音楽院は、奨学金をもらって入学する人とそうでない人のレベルの差が大きいのだそうで、今も、入学した4割が途中で退学していくのだといいます。
そして、卒業には、各専攻ごとに「卒業に必要な単位」
大西順子さんは、奨学金がもらえる立場になっても、
両親からは猛反対を受けました!!!!!
しかし、ラッキーなことに、その時偶然にも、大西さんのお兄さんが渡米することになったので、
「お兄さんとは隣町だから。」
と言って両親に伝え、説得できたのか???それは、わかりませんが行くことになりました!
隣町であることは本当のことですが、なんと500㎞も離れているのですからね。( ^^) _U~~
さすがに卒業するまでは、親が生活費は出してくれることになったそうですよ。
卒業したら日本に帰ることが前提条件だったようですが。(^^;
しぶしぶといったところでしょうね。(^^;
そして、お兄さんとは、ロスアンゼルスで別れたそうなのです。
本当に、若い時って勢いがありますね!!!
大西順子さんは、自分でこうと決めたら貫いていく人、(頑固な一面がわかりますね(^^;)
親としては頼もしいと思う反面心配になってしまうのでしょうけれどね。
そんな大西順子さんの生い立ちについてまとめた記事は、こちらから🎵
↓↓↓
大西順子ジャズピアニストの生い立ち,子どもの頃は?どんな家庭に育ったの? | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net)
大西順子さん:バークリー音楽院在学中は?
大西順子さんは、バークリー音楽院の学生がアルバイトをしているというバー等でピアノを弾くバイトを紹介してもらっていたそうです。
アルバイトといえば、これだけ!
ピアノを弾くアルバイトは、勉強になりますし、自分を売り込むチャンスにもなりますものね。
ですから、ピアノを弾くバイト以外は絶対にする気はなかったそうです。
大西順子さんの留学中の生活は、本当に、若い女性がそんな生活をして大丈夫だったのかと、ただただ驚くばかりなのです。
大西順子さんは、生活のためのアルバイトは一切せず、お金がない中、外に捨てられているマットレスを拾って使ったり、お店の裏側に置いてある牛乳を入れるプラスチックの箱などを持ち帰り、椅子やテーブル、クローゼット替わりにもして使っていたそうなのです。
大西さんは、貯金がなくなった時に、日本に帰ろう!という覚悟を持ってその日その日を生きていたそうなのですよ。
すごい覚悟ですよね。
そう思うと、今の大学生さんたちは、色々とアルバイトをしていますが、もっと、覚悟を持って勉強すると違う世界の扉を開くことができるようにも思います。
若い時の吸収力は断然違いますからね。
しみじみ感じます。
こんなに一途な思いでできることがあるって、素敵ですね。
これ程没頭できることが自分にはなかったことなので、、、。
大西順子さん:バークリー音楽院卒業後は?
大西順子さんは、1989年バークリーを首席で卒業し、日本に帰らず、
ニューヨークに移り、”アップタウン”にある「ジェシー・デイヴィス・クインテット」のレギュラー・ピアニストとして活躍することになります🎵
ジェシー・デイヴィスは、アルトサックス(AS)リーダーで、チャーリー・パーカーを彷彿とさせた人だったそうですね。
この時、大西さんは、サイドマンとしてピアノを弾くことがとても楽しかったそうなんです。上手な人たちと一緒に音楽ができる喜びが大きかったのです。
まさに、ニューヨークでしか経験できないことだったのです。
まだ、その頃(1989年頃)のアメリカは、ベトナム戦争の爪痕が残っており景気も悪く、大西さんは、当時、ブルックリン(下町ですね)に住んでいたそうで、治安も悪く、
ライブ(ライブ会場はアップタウンにありましたね)が終わってから地下鉄に乗って帰る時には、本当に怖くて、怖くて、”生きて日本に帰れないかもしれない”と思ったこともあるそうです。
そんな思いまでしてライブに出てジャズの腕を磨いていった大西順子さんなのであります。
わぉ~!!!強靭な精神力です!!!
そして、大西順子さんは、
1991年に、 ジョー・ヘンダーソン・カルテットのピアニストとして米国、日本をツアー。
ジョー・ヘンダーソン(1937年4月24日 – 2001年6月30日)は、アメリカのジャズ・ミュージシャン。テナーサックス奏者。40年以上のキャリアの中で同時代の多くのアメリカの一流プレイヤーと共演し、ブルーノートを含むいくつかの主要なレーベルで録音を残している。〔ウィキペディア一部引用〕
すごいですよね~。
大西順子さんは、ジャズの巨匠と共演できた最後の世代なのです。
大西さん自身も、ジャズの巨匠と共演できた最後の世代ということもあって、
自分はこのことを伝えていく存在であると考えているのです。
大西さんって、責任感が強いというか使命感が強いというべきか、
なんとも一途な性格ですね!
Joe Henderson Quartet – Live in Munich (1994)のYouTube動画がありますが、
ここには、埋め込みができないため、YouTubeにて、このカルテットの素晴らしさをお楽しみいただければと思います。ドイツのミュンヘンでのライブを聴くことができますよ。
大西順子さんが、ニューヨークでの下積み時代について詳しく記載した記事がありますので、こちらへ⇒大江千里&大西順子(ジャズピアニスト)NHK「トップランナー」秘話は? | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net
まとめ&感想
大西順子さんは、反対する親を説得できたがどうかはわかりませんが、最終的に、親からの支援を受け留学することができました。
この時の大西順子さんとご両親のことを考えると何だかじーんとしてきます。
また、大西さんは、卒業したら日本に帰るからとご両親に話しをし、それが留学の条件だったのにもかかわらず、実際は、日本には帰らず、ニューヨークでチャンスを掴もうと決死の覚悟で挑んていたのですから、本当に大したものです。
それも、うら若い女性がひとりで!!!
なかなかできない選択だと思いました。
当時の大西順子さんは、生活は苦しくても学ぶ楽しさで無我夢中だったのですね。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉があるように、この時の経験が後々の大西順子さんの活躍に繋がっていったのでしょうね。
でも、大西順子さんは、そういったことわざを意識してそうした訳ではなく、ただただ、セロニアス・モンクに魅せられて、モンクのようなピアノが弾きたい、上手くなりたい一心だったのです。
本当にこれ程好きなことがあるって素敵なことですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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