この記事を読むと、大江千里さんの生い立ち、子どもの頃からの音楽歴(ピアノを習い始めた頃から小学生、中学、高校、大学時代)や家族のこと、デビューしてからの活躍、人気絶頂期からの悩み、47歳でジャズを学びにアメリカ留学するに至った経緯などがわかります。
大江千里(おおえ せんり)さん,プロフィールなど
大江千里さんが生まれてから現在に至る長い道のりを辿っていきたいと思います。
千里の道も一歩からですね。
ローマは一日にして成らず、、、っていう感じでしょうか。
大江千里さんの名前「千里」について
千里さんは、自分の名前を、「千のふるさとがある」と、どこかで執筆していた記憶があります。
いいですね。自分にはたくさんのふるさとがあると感じられることって。
それだけ、今まで支えてくれた人だとか、思い出とかがあるんですよね、千里さんの記憶の中に。
親がつけてくれた名前に自らの思いを乗せていく、、、。
千里さんのそういうところもアーティストだな~と感じるのです。(*^-^*)
千里さんのように、自分の名前について、考えてみるといいのかもしれない、、、。
私もそう思っています。
大江千里さん 生年月日 年齢は?
1960年9月6日生まれ。現在62歳ですが、令和5年のお誕生日で63歳になります。
47歳の時に、ニューヨークに渡ってから、16年目に突入しますね。
大江千里さん 出身地
生まれは、大阪府南河内郡美陵町ですが、育ちは、狭山市(さやま)です。
大江千里さん 幼少時に身近だった音楽は「河内音頭」!
大江千里さんは、ほんまに、河内音頭の発祥地にごくこく近い地域で育ったんですよ。(^^;
慣れない大阪弁を使ってみました。(^^;
ここに生まれたからには、河内音頭が体内リズムになっていても不思議ではありませんね。
大江千里さん自身もそう言っております。
最近の千里さんは、ニューヨークから、河内の夏祭りをリモートで楽しんでいるようです。河内音頭で盆踊りは最高です!
暫くはリモート参加が続きそうでが、河内音頭での盆踊り体験してみたいな~。
大江千里さん:家族は?
大江千里さんのお父さまとお母さまは、お二人ともユニークで素敵な方だったようです。
そんなご両親とのエピソードもお伝えしていきたいと思います。
大江千里さん:お父様が『屋根の上でバイオリン』を弾いていた?
大江千里さんのお父様は、バイオリン、チェロなどの楽器をされる人でクラシック愛好家でした。
オペラも歌っていたそうですよ。
当時、私の叔母家族が狭山市住んでいたので、
千里さんのご家族の話を何度か聞いたことがあります。
それは、大江千里のお父様が「屋根の上でバイオリンを弾いていた」という話です。
私は実際には見ていないので本当かどうかわかりませんが、
近所ではユニークな存在で話題にのぼりやすかったようですよ。(*^-^*)
すごいですよね~🎵
ここまでくると、そんじょそこらのクラシック愛好家じゃないんですね。
『屋根の上のバイオリン弾き』という、ミュージカルがありますよね。
1965年のアメリカのミュージカルで、
日本では1967年から、森繫久彌さん(2009年没)が、なんと900回も公演したのです。
お父様は、きっと森繫久彌さんになりきっていたんだと思われます。(*^-^*)
そんなお父様でしたので、千里さんが、クラシックピアノではなく、Jポップの道へ進むことについては、あまり賛成ではなかったようですね。
実際のところ、中学生頃から大江千里さんは、お父様とは殆ど会話しなくなったのだそうですよ。
でも、そんなお父様も、陰では千里さんを応援していたといいます。
親とはそういうものですね。
ありがたい存在ですね。
千里さんが、47歳でジャズを学びにニューヨークに行く時も、反対はせず、やるだけのことはやってきたから、第2の人生を考えてもいいんじゃないかと応援してくれたそうなのですが、
そんなお父様も、コロナ禍の前に亡くなられたそうなのです。
千里さん、寂しい気持ちでしょうね。
大江千里さん:お母様は宝塚ファン
お母さまは、千里さんが中学生の時に作った曲に合わせて踊っていたそうですよ。
ノリの良いお母さまですね~(*^-^*)
素敵だわ~!!!
ですから、千里さんは、お母さんっ子だったのです。
お母さまとの楽しい思い出がたくさんありそうですよね。
大江千里さん その文才は遺伝?
千里さんのお父様は、新聞社務めで物書きだったそうです。
千里さんの文才もそういったお父様の才能を引き継いでいるのでしょうか?
環境の影響は大きいですから。。。
最近の千里さんのファンの中には、曲は聴いたことないけど、
本を読んで好きになったという人も多くいます!
ガッテンします!(#^^#)!
千里さんの描写の力、文章にもリズム感が宿っていますよね。
女性ファンを熱狂させていたのは、歌詞の素晴らしさも大きいのです。
若い頃の私は、あまり歌詞に魅了されない方だったのですが、歌詞とメロディー、アレンジ全てに引き込まれたのが大江千里さんでした。
大江千里さんのきょうだいは?
大江千里さんんは、妹がひとりいます。名前は、万里(まんり)さんです。
妹さんのことは、殆ど情報が出ていませんね。
私の従姉妹は、大江千里さんと同じ中学だったので、
「図書館で借りた本に妹の大江万里さんの名前があったよ!」
と言っていました。
同じ本を借りたというだけで、ちょっと自慢げでしたね。(*^-^*)
妹さんも読書好きで文才があるのかもしれませんね。
大江千里さん:音楽歴
大江千里さんの音楽歴をこれから振り返っていきたいと思います。
大江千里さん:1963年 3歳からクラシックピアノを始める
ピアノが習いたかった千里さん、でも、両親は、男だからピアノなんてダメと大反対!
それにも負けず、千里さんは、障子にクレヨンで鍵盤の絵を描いて、三日三晩その障子の絵のピアノを弾き続けたというエピソードがあります。
3歳という年齢は、言葉で両親を説得できる力はまだないですから、行動で示すしかないと思うのですが、それが、ダダをこねるとかではなく、それ程ピアノが好きであるという自分の姿を見せるという手段をとった訳ですから、只者ではないですね。やはり。
確信犯というのでしょうか、これではご両親も根負けしますよね。
そして、何とも意地らしく可愛いと思ってしまいます。(*^-^*)
なんとも微笑ましい家族の様子が目に浮かんでくるのです。
大江千里さん:作曲の天才!6歳の頃ピアノ発表会でのエピソード
大江千里さんは、オペラ歌手を目指す高校生のユミ先生に3歳からピアノを習っていました。
6歳の時のピアノ発表会での話なのですが、トルコ行進曲のBパートからAパートに戻れなくなってしまったのです。
そのため、初めての作曲、すなわち、即興演奏で締めくくったそうなのです。
なんと、それが、会場を熱気の渦に巻き込んだといいます!!!
6歳にしてこの堂々たる切り抜け方!!!
そんな風にピンチを切り抜ける才能があったとは!!!!
”ブラボー”って言いたくなりますね!(^^)!
ピアノは暗譜が基本なので、一つミスると簡単に崩れてしまうのですが、大江千里さんには、ピンチをチャンスに変える能力が備わっていたのです!
私の身近な人のピアノ発表会で、「エリーゼのために」が終わらなくなってしまった子どもがいました。
案の定、演奏が途中で止まってしまい、弾き直してもできなくて、仕方なく退場することになりました。
普通は、そんな風にボロボロになってしまうものです。
当時の千里さんは、会場を沸かすまでの演奏をしたというのですから、大したものです🎵
その時、千里さんの即興性をユミ先生は、いち早く見抜き、千里さんに、「作曲が好きでしょう?」と言って、作曲の課題をたくさん出してくれたのです。
「千里くんは、プロになれるわ」と言ってくれたのもユミ先生だったのです。
大江千里さん:1970年,小学校4年生の時に聴いたギルバート・オサリバンのアローン・アゲインをきっかけにポップ・ミュージックに目覚める
私も、この曲、大好きです。
1970年代の洋楽も大好きです!!
この曲は、名曲中の名曲です!!!
大江千里さん:1975年,ヤマハポピュラーソングコンテスト関西四国沖縄決勝大会に出場
1975年ですと、千里さんが中学3年生の時ですね。
千里さんは、中学生から、作詞作曲をしてシンガーソングライターのまねごとをはじめたと言っています。ですから、3年ぐらいで関西四国沖縄の決勝大会まで出場したのですね。
作詞作曲をするアマチュア音楽家の目標は、
このヤマハのポプコンに出場することだったと思います。
熱気がありましたよ。この時代は。
私も、中学2年生の時に、一般審査員に応募して会場まで行きました。
その時のゲストは、八神純子さんでした。
大江千里さん:1980年,関西学院大学経済学部入学,軽音楽部へ入部
大江千里さんは、『トニオ・クレイガー』というバンドを結成し、自作曲の演奏やライブハウスなどにも出演していました。
当時は、私立の大学の軽音楽部はとても人気があったと思います。
私のエリアは名古屋ですが、とにかく学祭の時のステージは華やかでプロ顔負けのレベルで本当に素敵で憧れでした🎵
当時の大学生は、華やかでした。
大江千里さん:1981年,大学2回生の時に、CBSソニーからスカウトされる
千里さんは、この時、オーディションで最優秀アーティスト賞を獲得したのですが、デビューはせずに、大学生活を優先!!!
ボーカルレッスンを受けながら、音楽活動も並行してやっていきました。
大江千里さん:1983年,シンガーソングライターとしてデビュー
2007年末までの24年間の間に、45枚のシングルと18枚のオリジナルアルバムを発表。
これは、普通では考えられない程の枚数を発表しています。
爆走していた証拠です!!!
ヒット曲は、「十人十色」「あいたい」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などがありますが、名曲はたくさんありますね。
私は、実は、「ありがとう」ってなぜか知らないんですよ。
好きな曲はたくさんありますが、、、、
私のおススメは、「君と生きたい」かな。
20代の頃にピアノ弾き語りの本を購入して練習していました。
なつかしいです。
大江千里さん:J-pop時代の活躍と不安
本当に、1980年代の千里さんの活躍はとにかくすごかったなぁ。
当時のCDは全部持っていたけど、何度聴いても飽きることがなかったですね。
自分に語りかけてくれている感じの独特の声でしたから。
千里さんのことがまるで彼氏のように感じられるのが不思議でした。
千里マジックに罹ってましたね~。
言葉の紡ぎ方も曲も全てが新鮮で、ジャケットの写真も大のお気に入りでした。
雰囲気がいいんですよね。オシャレ感満載でした(^^♪
第一線でずっと活躍し続けてきた千里さんは、ほんま(ちょっとだけ大阪弁)に
考える暇もない毎日を必死に生きていたのです。
ホントにお疲れ様と言いたいです!
大江千里さん:トップランナーでも幸せを感じられなかった?
そんなに頑張っていたのに、その頃の千里さんは、幸せを感じていなかったそうです。
当時の昭和のアイドル達もそんな風に感じる方が多かったと記憶しています。
辛くて悲しいですね、、、。
大きな会場で満席のお客さんが入っていても、少しずつ遠くの席の人から減っていくのがわかって、不安もあったそうです。
人気絶頂の時ってそういう不安があるんですよね。
もう、これからは落ちるしかないっていう不安ですね。
人間の「幸せってなんだろう?」って考えさせれます。
大江千里さん:ジャズへの扉は31歳のニューヨーク短期滞在
そして、ちょうどその時、31歳にニューヨークに短期滞在し、その時の経験が、後に全ての実績を捨ててジャズへの道へ進むきっかけになったと自ら語っています。
やっぱり、悩みのある時は、自分を俯瞰できる場所に身を置くことって大事ですね。
とっても共感します。
千里さんは、その時、ニューヨークでは何者でもない自分に不安と焦燥感を覚え、プロの音楽家として本当の意味でもっと認められるようになりたいと思ったそうです。
そして、この頃から、大江千里さんは、
ニューヨークと日本を行ったり来たりしていました。
オフタイムにはジャズを聴きまくっていたのです。
特に「セロニアス・モンク」に傾倒してたとインタビュー記事にありました。
「セロニアス・モンク」というとジャズピアニストの大西順子さん!
こんなところに2人の共通点があったとは、、、。
下記の記事を読むと、大江千里さんの当時の様子がわかります🎵
↓↓↓↓
大江千里&大西順子(ジャズピアニスト)NHK「トップランナー」での秘話は? | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net)
でも、大江さんは、当時は、ポップスが好きで死んでもやめたくなかった、
だから活動を続けることになったそうです。
なるほど。
それも自分で選択した結果なのですね。
大江千里さん:恋愛の歌詞が書けない、歌えない苦しみと葛藤
でも、次第に自分が「求めるもの」とファンから「求められるもの」との乖離(かいり)に悩むように、、、
千里さんは、徐々に純粋に恋愛の歌詞が書けなくなって、歌えなくなったのです。
確かにそうだなと、、、。
シンガーソングライターって、たぶん大方の人は、等身大の自分に焦点を当ててメッセージを送っているから、ちょうどそのメッセージに共感する人たちがファンになって聴いてくれています。
そして、人は色んな経験を通して変化し成長ていく、しかし、その変化に合わせてファンも変化してくれるとは限らないですものね。
そのギャップがだんだん大きくなっていくのは、本人としては本当に辛いことですね。
全然知らなかったです。
そんな悩みを抱えていたとは、、、。
大江千里さん:葛藤している時に書いた曲が好き!
そして、ご本人としては、
葛藤している時に書いた楽曲が一番好きなのだそうです!
いいじゃないですか!それで!!!
そういった時こそ音楽が必要で、ヒットはしなくても、
今でも好きと言える歌ができたことに意味があると思います!!!
・・・とつい熱くなってしまった。(*^-^*)
この度、千里さんの記事を色々と読み、葛藤している時の楽曲を、聴きたくなりました。いろんなことを知るにつけ音楽を聴く視点も変化してきますね。
そういった千里さんの背景も振り返りつつ改めて聴いてみたいと思います。
大江千里さん:47歳の転機 2008年ニューヨークへ
大江千里さん:ニューヨークのニュースクール大学にジャズ留学
すごいっ!!!!拍手!!!!!!!!!
書類審査に合格しました。課題曲を録音して送ったのです。
大江千里さん:脱・河内音頭&脱・J~ポップに2年かかった?😆
河内音頭を聴いて育った千里さん、
おまけにJーポップの自己流のノリの癖がしーっかりと身についてしまっているから、
ジャスのノリを身に染み込ませるまでに、2年間ぐらいかかったようです。
自分が獲得してきた全てをゼロにして総入れ替えしたんですよね。
相当大変なことでしたね。
それをやってのけてしまったのですから、すごいパワーでしたね(^^♪
大江千里さん:2012年,4年半かけて大学を卒業、自分のレーベルを立ち上げる
卒業してすぐさまプロとしての活動を開始できるって驚きです。
先を見越して計画的にコツコツと進めていたのです。
素晴らしいです。
大江千里さん:2012年 米国で音楽活動を開始
活動開始後、コンスタントにジャズアルバムをリリースしています。
すごい精力的ですね。
やっぱり、J– POPの頂点にいただけあります!!!
大江千里さんのジャズアルバム紹介は、別記事にしてまとめてあります。🎵
↓↓↓
第7作目までのアルバムをまとめてあります。YouTube動画も集めて観れるようになっていますのでどうぞご覧くださいませ。
大江千里さんの現在は?,全曲オリジナルのジャズアルバム,楽曲生み出す天才🎵 | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net)
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