坂本龍一さんのYMO時代のしんどさって?有名⇒ストレス⇒閉じこもり⇒YMOへの憎悪へ

一夜にして国民的スターになってしまったYMO(イエローマジックオーケストラ)。この記事では、そんな時代の坂本龍一さんに焦点をあてて深堀していきます。

今までYMOのことを知らない人たちにも知られるようになり、社会現象とまでいわれた時代。

その時の気持ちなどを坂本龍一さんは、「音楽は自由にする」の中で綴っています。

本当に偽りのない気持ちや葛藤などがここにはありました。

人生は、自分の予定になったことが起きるものです、坂本龍一さんは、有名になるとどんなことが起きるのが想定外で適応できなかったようです。



坂本龍一さん:YMOが国民的スターになったのはどうして?

1979年の11月、最初のワールドツアーから帰国したYMOは国民的スターになっていました。

アルファレコードパブリシティ戦略が、当時としては画期的だったことも功を奏したそうです。

アルファミュージック株式会社(Alfa Music, Inc.)は、日本の音楽出版社、および過去に存在した日本のレコード会社。レコード・CD制作からは撤退。2023年現在、原盤権は一部のアーティストを除き、ソニー・ミュージックレーベルズが全て管理している。
《ウィキペディア引用》
パブリシティは広報PR活動の一種で、自社の製品や事業に関する発表をしたり、取材に応じたりすることで、マスコミ媒体に取り上げてもらう活動のことです。

どんな戦略だったかといいますと、ライターさんをツアーに同行させて、各地で公演が成功している様子を書いてもらい、その様子を、『平凡パンチ』とか、当時人気のあった雑誌に速報として掲載したのだそうです。

ですので、YMOが帰国した時には、すっかり大スターとなっていました!

それを見込んで、日本での凱旋公演のようなものもしっかり用意されていたそうですよ。

「YMOは、海外で受けたらしい、、、」ということで、それまでYMOのことを知らなかったような人たちにも、一気に知られるようになり、それは、社会現象とまで言われてしまう勢いがありました!

ちなみに、私も、YMOを知らなかった人たちに含まれますが、、、(^^;

当時は、海外で日本のファッションデザイナーが活躍していた時代でもありましたし、海外で活躍できるミュージシャンが出てきたことに対して、当時の日本人は、新たな夢、希望を感じたのでしょうね。

それにしても、今は当たり前かもしれませんが、新しいアーティストたちを売り出していくための戦略はスゴイですね。

初めからシナリオを作って宣伝していくので、新人アーティストたちは、そのレールに乗って進んでいかざる得ないといった大変さがありますね。

敷かれたレールの上を走る大変さ、そして、忙しそう!消耗しそう!と思ってしまう私です。 (>_<)



坂本龍一さんは人前に出るのが苦手で閉じこもりに?

坂本龍一さんは、それまで「無名でいたい、前に出たくない」と思って生きてきたそうです。

しかし、その思いとは、真逆に時が流れていくのです。

国民的スターになってしまったのですから、気がついてみれば、道を歩いているだけで指を差されるような人間に突如としてなってしまったわけです。

それは坂本龍一さんにとっては、全く予想外のことで本当に困ったことだったのです。

ですので、坂本さんは、ほとんど部屋からです人目を避けて閉じこもる生活になってしまったというのです。

本当に、本当に、大変なストレスへとなっていたのですね。

有名になるって大変ですね。

坂本さんは、食事のために、コソコソと外出すると高校生に見つかって「あ坂本だ!」なんて言われてマンションに逃げ帰ったりしていたというのですから。

そういう生活を続けていると、本当に、そんな自分に対して嫌になってしまいますよね。

当時は、「とにかくほっておいてほしい!」と心から思っていたようです。



YMOのライブアルバムのタイトル「公的抑圧」は坂本さんの思い?

1980年2月にツアーの様子を収めたライブアルバムが出たのですが、そのタイトルが公的抑圧パブリックプレッシャー!

誰が考えたタイトルかは覚えていないそうですがが、まさに当時の坂本龍一さんのためにあるような言葉だと坂本さん自身は語っています!

その当時、坂本龍一さんは、閉じこもりの生活から、徐々に、それが、YMOの憎悪につながっていったといいます。

「俺はこんなつもりじゃなかった。YMOがオレをこんなふうにしたと。」いう思いが募ってきたというのです。

うつ状態になっていたのかなと感じます。

そんな精神状態ですから、YMOのメンバーとも上手くいかなくなってしまいますよね。

何事も一生懸命で、突き詰めていく、研究者タイプの坂本龍一さん。

そもそも、YMOは、細野晴臣さんに誘われて、「勝手にやります」みたいな気持ちで始めたそうです。そんな気持ちで始めたYMOの活動なのに、いざ始まってみたらどんどん思い入れが強くなっていった坂本龍一さんなのです。

実際、活動を始めてみると、自分がYMOでやりたい音楽というのがだんだんはっきりしてきたそうです。

でも、3人で制作していくということは、どうしても自分の思い通りにならないことが出てきます。

それは、当然のことですが、坂本さんは、それが相当しんどかったようです。

なんといっても、YMOの3人は、全員が才能あふれる音楽家ですからお互い譲れないところもあったのでしょう。

そもそも、ソロでの活躍ができる人たちが集まった集団、そして音楽性が異なる3人。

そんなバンド活動の根本的なストレスに加え、YMOブームという環境のストレスがあり、それが結びついてどんどん坂本龍一さんの心を苦しめていったのです。

Haruharu笑顔
Haruharu

坂本龍一さんは、こうした自分の過去の気持ちを執筆されていますので、

「音楽は自由にする」を手に取ってみてくださいね。

とっても興味深い本です!
最後までお付き合いましてありがとうございます。

 

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