フジコヘミングさんは、とっても残念なことに、2024年4月21日(92歳)でお亡くなりになりました。すい臓がんだったそうです。もうフジコさんの演奏を聴くことができないんですよね、、、。(>_<)この記事を読むと、60歳から突如として表れた”魂のピアニスト”と称されるフジコ・ヘミングさんの生い立ちやご両親、そしてフジコさんの子どもの頃のことなどのエピソードを知ることができます。
フジコ・ヘミングさん:魂のピアニスト,60歳から突然ブレイクしたのはなぜ?
プロのピアニストとして、”60歳から突然のブレイク”って本当にあるんです!
フジコ・ヘミングさんの人生を知れば知るほど、自分を信じて前を向いて歩き続けていれば、何がキッカケでブレイクするかわからないんだ~!と、思えてきます(*^-^*)
そう、、希望が持てるというか、人生なんとかなる!って思えてくるのです。
それだけ説得力がある人生を送ってみえる方なんでしょうね~。フジコ・ヘミングさんって!
さてさて、前置きが長くなってしまってますが、60歳から突然ブレイクしたフジコ・ヘミングさんは、どうしてブレイクしちゃったんでしょうか??何がキッカケだったのでしょうか???
それは、ご本人の著書である『やがて鐘は鳴る』の中にちゃんと綴られていましたよ!
フジコ・ヘミング:母親の死後、日本へ戻ったことがブレイクのキッカケに!
フジコさんは、長年、ドイツでピアノ教師として生活していたので、もう自分は日本には戻らないで、ドイツで年金をもらいながら細々と生活していくつもりだった、、、というのです。
でもでも、お母さまが亡くなられた2年後に日本に帰国することを決断することになったんです。
フジコ・ヘミングさんが日本に帰国した理由とは?
フジコさんが日本に帰国することを選択した理由は、お母さまが生前にお住まいになっていた東京・下北沢の家が人の手に渡るのが嫌だったからなんですよ。
お母さまが住んでいたという家、どんな家かって?
それはですね~。劇団『青年座』が建てた建物で洋館なんです!!!
それをお母さまが、青年座から買い取って、3階を劇団の稽古場として貸していたそうですよ。
そういった歴史ある建築物、古い建物が大好きなフジコさんなのであります。
フジコさんには、弟さんがいるのですが、結婚して下町の方に住んでいて、このお母さまが住んでいた家を売ってしまおうかと考えていたそうなんです。
でも、フジコさんは、それだけは絶対嫌だったので、フジコさんが、日本に帰ってその家に住むことにしたのです。
フジコさんは、お母さまから引き継いだ家に、ドイツで使っていた家具類を全て持ち込んで、お母さまとの絆を感じながら暮らすようになったのです。
フジコさんにとって、このお母さまが住んでいた家は、お母さまが残してくれた宝物なんですよね!
フジコさん、日本に帰国してからどうしていたの?
フジコさんは、日本に帰国してから、母校である東京藝術大学の旧奏楽堂で、少しずつ演奏活動を始めたのですが、日本に帰ってからも、相変わらずお金に困った生活をしていました。
フジコさんは、猫との生活が長いのですが、猫の餌も日本ではドイツの倍の値段だったそうで、家計が苦しいのは変わりなかったといいます。
フジコさんは、ヨーロッパに渡る前から教会に通っていたのですが、日本に帰ってきてから、下北沢の教会に入ってみたそうです。
その教会の入り口に置いてあった「今週の聖書の言葉」が書いてある冊子をもらって帰り、読んでみたら、「遅くなっても待っておれ。それは必ず訪れる」という言葉が書かれていたというのです。
フジコさんは、その冊子に書かれている言葉を見て、「神様は、きっと、私のことなんか忘れてしまっているんだろう」と思っていたそうです。
しかし、それは、本当に訪れたそうです!
ある日、フジコさんのもとに、NHKの人がやってきた!!!
フジコさんのもとに、NHKの人がやってきて、「ドキュメンタリー番組を撮らせて欲しい」と言ったそうです。
フジコさんは、その時、「なぜ私の番組を??」と疑問がいっぱいだったそうですが、ひとつだけ思い当たることがあったそうです。
それは、フジコさんは、聖路加国際病院に週3回、ボランティアでピアノ演奏をしていた時があったのですが、病院の上層部の方の息子さんがNHKに勤めていて、フジコさんのことを知ったという、ことなのです。
何がチャンスになるか、ほんと、わからないですね~!(*^-^*)!
『フジコ~あるピアニストの軌跡~』NHK 1998年放送後、一夜にして全国的に有名に🎵
フジコさんは、「少しでもチャンスにつながれば」と思い撮影を引き受けたそうです!
すると、3人のクルーが毎日、下北沢の自宅にやって来て、撮影するでもなく座り込んで何か考えている様子で、また、少し撮影してはまた考えてといった感じで、夜になっても帰らないので、駅前のお店に連れていってご馳走したりしていたそうです。
それが、2週間ぐらい続いたって!
その番組が放送された後、いつも行っていたお店の前を通りかかると、フジコさんのもとに、「あー!」と声をあげながらやってきて、「すごくよかった!と番組の感想を興奮気味にまくしたてる程だったそうで、それは、そのおばさんだけでなく、フジコさんに興味を持ってくれた人がとても多く、何度も再放送され、続編まで作られることになったのです。
フジコ・ヘミングさん:魂のピアニスト,生い立ち,どんな家庭?
フジコ・ヘミングさんは、1932年(昭和7年)12月5日にドイツのベルリンで生まれました。
現在、御年90歳です!👏👏👏
90歳になっても、海外そして日本で演奏を精力的に続けているなんてスゴイですよね。👏👏👏
そんなフジコ・ヘミングさんの生い立ちについてこれから綴っていきたいと思います。
フジコ・ヘミングさん:お母様はピアニスト,ドイツ留学中に恋に落ちた!
フジコ・ヘミングさんのお母さまの名前は、大月投網子(とあこ)さん。
大月投網子(とあこ)さんは、なんと、ピアニストで、東京藝大を卒業後、ドイツ(ベルリン)に留学しました。
そして留学中に、ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんというスウェーデンの画家お父さまと出会い結婚に至り、フジコさんと弟のウルフさん(3歳下)が生まれたというわけであります。
フジコさんが生まれた時、お父様は21歳、お母様は28歳でした。
お父様は、お母さまよりも7歳年下であったのです。
フジコさんのお母様って、すごいですよね。Σ(゚Д゚)
当時のドイツは、ナチス、ヒトラーの時代です!
第2次世界大戦前ですよ!
この時代にドイツ留学することは、お金持ちでないとできかなかったと思いますが、それに加えて、ドイツで7歳年下の男性と結婚し、2児を出産し、フジコさんが5歳になるまで、この異国の地で子育てしていたのですから。
フジコ・ヘミングさん:母親の実家はお金持ち
フジコ・ヘミングさんのお母様の実家は、大阪市の中津にありました。
お母様の祖父は、明治時代に日本で最初に印刷用インキを発明した人で、大阪の印刷会社、大月インキを経営しており工場長をされていたそうです。Σ(゚Д゚)
スゴイ!日本で最初に印刷用インキを発明というのが、またまた歴史を感じます。
当時は印刷会社の景気が良かったため、フジコさんのお母様のご実家は裕福だったのです。
フジコ・ヘミングさん:5歳の時に一家そろって日本へ
フジコ・ヘミングさん一家、ご両親とフジコさん、そして弟さんの4人は、フジコさんが5歳の時に日本に移住してきました。
当時のドイツは、ヒトラーが政権を握り、日本も軍国主義が濃厚になりつつあった頃でした。
そういった時代背景があったのです。
ああ、、、大変な時代、、、。
そうでなかったら、フジコさん一家は、ドイツ暮らしをしていたことでしょうね。
フジコ・ヘミングさん:日本に来てからいじめに遭うことが多かった
フジコさんは、日本人とスウェーデン人とのハーフです。
そのため、日本に来てから、いじめに遭うことが多かったといいます。
いじめの対象になってしまう原因が”ハーフ”であるということですから、これは、避けられないことですよね。
”ハーフ”であるということは、自分のせいではないのですから。
フジコさんにとっては、とっても辛いものだったのです。
この時代は、外国人排斥の時代だったんですよね。
フジコ・ヘミングさん:留学先でもいじめや仲間外れに遭っていた
フジコさんは、日本ではハーフであるという理由でいじめられ、ドイツでも、異人であるが故の孤独。
ドイツ留学中には、日本人留学生たちから仲間外れにされ、お互い足の引っ張り合いだったそうです。
ですから、唯一、猫とピアノが癒しだったのです。
そんな孤独な人生を歩んでいくことになるのですが、それは、フジコさんが背負っていく”運命”であったのです。
でも、その中に、フジコさんの演奏を気に入ってくれた人や褒めてくれた人もいたんです。
だから、辛い中にも希望があったんですよね。(*^-^*)
人は、みな生まれた時からのそれぞれの運命を背負いながら生きていくもの。
ひとりひとりが味わい深い人生を歩んでいくんだと思います。
きっと、この記事をお読みいただいている方も、おそらく、それぞれの運命を背負って生きていて、数奇な人生を歩んできたフジコさんのことに関心を抱いているのではないかしら?
フジコさんの人生を知っていくと、私たちは、おそらく、苦労をた~くさん経験しながら成長していくフジコさんの人生に勇気づけられ、応援したくなってしまう、そういう感情が芽生えてくるのかなって思います。
ホント、辛い経験、楽しい経験、ほろ苦い経験、そんなたくさんの経験を通して、フジコさんは、徐々に強くたくましく成長していったんですよね~。そう思うとジーンとしてきてしまうのであります。
私は、フジコ・ヘミングさんの人生を知れば知る程、じんわりとですが、涙、そして笑い、加えて、充実した気持ち、一生懸命生きる素晴らしさを感じることができるので~す!!!
そして、どうしても、私は、フジコさんの奏でるピアノを聴く時、フジコさんの人生を重ねて合わせて聴いてしまいますね。
これがまた味わい深いんですよね~。(^^♪
フジコさんのファンの方は、きっと、そう感じているのかなって想像しています。
フジコ・ヘミングさん:お母さまの性格は強烈,ヒステリー症だった?
フジコヘミングさんは、お母様のことについてご自身の著書にいろいろとその思い出を綴られています。
これからご紹介したいのは、ご自身の著書ではないのですが、宮原安春著『家族の原風景』(2004年10月30日発行)の中に、飾らない言葉で、それも、ご本人の語り口調で綴られていましたので、引用させていただくことにしました。
これは、本人へのインタビュー記事ですね。
母はね、とっても気性の激しい人で、子供たちにピアノを教えるときも怒鳴ってばかり。
「なんだ、それは、やめちまえ!」と容赦ない。月謝を取って教えているのに、ですよ。
親から言われて通っている子にそうですから、私に対してはもっと強烈です。すぐに「ばか!」、と罵り(ののし)り、わめく。涙がぽろぽろ出るし、嫌でしたね。
厳しいと言うよりも、ヒステリー症だった。終始怒鳴って、わめいている。うるさくてかなわない。
そもそも、実家がお金持ちだった母が日本を離れてドイツに留学したのも、こんなヒステリー娘は結婚してくれる日本人がいないから、ドイツに送れば誰か捕まえてくれるだろう、と狙ったらしいですよ。
父がよくもあんな母と結婚したものだと、私は感心しているんです。
~宮原安春著『家族の原風景』より引用~
この本は、2004年に発行されており、もう、20年程前のものになってしまっているのですが、酸いも甘いも知る大人になったフジコさんの言葉だなって感じますね~。
フジコさんは、自分に正直な人。フジコさんは、ウソを書くことができないと自らの著書に綴っています。
ご自分の母親のことについても、こんなに、そのままズバッ!と表現してしまって、、、本当にいいのかしら、、、って、とっても驚かされます。
いろいろと苦労を重ねてきたフジコさんですが、自分の人生に対して、恥ずかしいだとか、隠したいとか、そういう次元では物事を見ていないように感じますよね。
フジコさんは、自分の歩んできた人生そのもの、全てを受け入れているんだ、、と強く感じるのであります。
自分の人生を肯定していなければ、自ら正直な気持ちを語ること、綴ることは大変難しいと思うから。
フジコさんは、ご両親の結婚生活が徐々に上手くいかなくなってきたことも小さい頃に十分すぎる程見ています。
また、お母さまが離婚されてから、実は、再婚話がたくさんあったそうなのです。
でも、フジコさんと弟のウルフくんが再婚することに大反対したため、お母さまは再婚せずに、ピアノ教師として生計を立て、苦労しながら子ども2人を育てあげた、、、そのことを身をもって感じているのでしょうから。
そういった色々な想い出、、そのものがフジコさんの宝物になっているのでしょう!(^^)!
フジコ・ヘミングさん:母からの仕送りを40歳まで受けていた!
フジコさんのお母様は、フジコさんがドイツ留学してからは、生活費を毎月仕送りしてくれていて、ベルリン音楽大学を卒業してからも、フジコさんが40歳になるまで、お母さまはずっと仕送りをしていたんです。
スゴイお母さまですよね~。娘のために、、、。
実際のところ、母親の仕送りだけでは、お金が足りなくて貧乏生活を送っていたフジコさんでしたが、このように頑張ってくれていたお母さまに対してとっても感謝していると綴ってみえます。
ご両親のことについては、いろいろとあったけれども、フジコさんにとって、ご両親はかけがえのない存在なのです。
大人になって両親がしてくれていたことに対して、あの時は本当にありがたかったな、なんて気づくことがありますよね。
そんなところも、共感できるから、私は、人生の大先輩としてフジコさんを応援したくなってしまいます。
フジコ・ヘミングさん:お父様は貴族の生まれだった!
フジコ・ヘミングさんの著書『やがて鐘は鳴る』によりますと、フジコさんのお父様は、お母様より、7歳年下で貴族の生まれで、貴族の学校で教育を受けた人だそうです。
そして、ハンサムで優しい声の持ち主だったんですって。
フジコさんのお母様は、一目惚れで勢いで結婚してしまった、という感じのようです。
フジコさんは5歳の時にお父様と別れたためお父さまの記憶はほとんどないそうですが、”あれが父かもしれない”というシーンは視覚的に残っているそうです。
それは、どんな思い出なのでしょう?
それは、、、クリスマスの日に、サンタクロースの洋服を着た痩せた若い男性が玄関から入ってきたそうですが、子どもの頃のフジコさんは、それが怖くて怖くて大声で泣いてしまったのだそう。
フジコさん、相当にビックリしちゃったんですね~。
しかしながら、怖いという感情が働いたからこそ記憶に残ったのでしょうね。
フジコ・ヘミングさん:お父様は日本の秘密警察に見張られ強制送還!
フジコさんは、お父様のことについても語ってみえますので、紹介させていただきますね。
父はちょっと不良じみた所がある男でね、そこが魅力でもあったのでしょう。
母の品物を質屋に入れちゃったり、売り払ってしまったり。
母が恋に落ちたベルリンでは、ポスターなどを書くデザイナーでしたが、言葉もできない日本に来て仕事はろくになく辛かったと思いますよ。
でも、ハンサムでしたから、女性にはモテたようです。
若かったし、すぐに浮気する女たらし。
でも、どっかの女と一・二週間ほど一緒に暮らしたとしても、必ず家に帰って来る人だった。
母は、「男ってそういうものだから、あんまり追い詰めないようにしていれば、逃げないからね。」と教えてくれました。
スウェーデン人だから、一目で外国人だとわかる。このため日本の特別高等警察にいつも見張られていた。
母は日本人なのに外国人と結婚したので、やはり特攻に付きまとわれ、いじめられていたことを、子どもだった私も知ってます。
父は、滞日期間で帰ってしまいました。
なぜ、私と日本で生まれた弟を置いて本国に帰ってしまったのかを考えると特攻に常に見張られていることが煩わしかったのでしょう。
一日中わめき騒いでいる母のような女と一緒に居ることが嫌になったこともある。
でも、スウェーデンから手紙が時々届いて、「仕事が見つかったから迎えに来るから」と書いていたようです。離婚する気はなく、結局愛していたんだと思いますね。
~宮原安春著『家族の原風景』より引用~
フジコ・ヘミングさんのお母さまとお父さまは、戦争という時代の流れで別々の暮らしを余儀なくされてしまったのですね。
フジコさんのお父さまは、画家といっても漫画を描いていて、朝日イブニングニュースに漫画を連載していた時期があったそうです。
その時に、お父様は、日本の社会をあざ笑ったかのような漫画をいっぱい描いていたため、秘密警察から目を付けられてしまったというのです。
実際に、フジコさんの隣の家まで警察が聞き込みに来たそうで、フジコさんが5歳の時に、お父様は、スウェーデンに強制送還させられてしまいました。それは、第2次世界大戦がはじまる直前のことだったそうです。
当時、フジコさんは、父親が突然スウェーデンに帰っていってしまったのは、強制送還されたからであるということを知らずにいて、後からこの事実を聞いて知ったそうです。
フジコさんは、おそらく、父親が勝手に自分たちを見放してしまったのではなかったんだ、ということがわかって、たいそう救われた気持ちになったのではないか、、と思います。
そして、父親が祖国へ帰ってしまった事情を知ったフジコさんは、お父さんに会って話がしたいって思ったのかもしれない、、、。
お父さんは、当時、どんな思いをして日本で暮らしていたのだとか。
家族って、いろいろとあっても、愛しいものだから。
フジコ・ヘミングさん:お父様は祖国に戻ってから別の家庭を持っていた!
そうそう、フジコさんの著書を読んでいくと、5歳で別れてから一度も父とは会っていないと書かれているものもあれば、スウェーデン国籍を取得する時に、父と再会したことが綴られている著書もありました。
著書『やがて鐘は鳴る』の中では、フジコさんのお父様は、建築家になり、大きな建設会社の社長として成功し、別の家庭を築いていたそうです。
しかし、再会した時の父親の姿が変わり果ててしまっていて、会わなかった方が良かった、、というようなことが書かれていました。
昔の記憶のままの方が幸せであることも当然ながらあるものですね。
フジコさんの記憶の中のお父様は、素敵な、カッコいい男性だったのですから、がっかりしてしまった気持ちもわかります。
フジコ・ヘミングさん:”魂のピアニスト”と称されるようになった原点とは?
フジコ・ヘミングさんがピアノに魅せられていくようになった経緯をこれからお伝えしていきたいと思います。「魂のピアニスト」と称されるまでになったのは、どういった教育を受けたからなのでしょうか?
フジコ・ヘミングさん:母のスパルタ教育を受け才能を開花!
フジコ・ヘミングさんは、5歳からピアノを始めたのですが、フジコさんが最初に習ったのは、ピアノ教師であるお母さまです。
お母さまの指導は、それはそれは大変厳しくて、フジコさんは、毎日6時間、怒鳴られてばかりだったといいます。
1回2時間のピアノレッスンが一日3回あったそうです。
これは、ホントに大変なことだったでしょうね。
フジコさんがこのスパルタ教育に耐えることができたのは、好きな絵を描いたり、猫と過ごす時間があったからだそうです。
フジコさんの叔母様は日本画家だそうで、お父様も画家、おそらく、フジコさんは絵の才能も持って生まれたのでしょうね。
そして、猫との時間が持てたのは、フジコさんのお母様は猫が大嫌いだったのにもかかわらず、フジコさんが猫を飼うことを許してくれたといいます。
娘の気持ちを汲んでくれるところもある良いお母さまなんですよね。
フジコヘミングさん:10歳からピアノをレオニード・クロイツァーに習う
その後、フジコさんは、10歳の時、ピアニストのレオニード・クロイツァーに習い始めます。
レオニード・クロイツァー( 1884年(1883年説もある)3月13日生まれ)は、サンクトペテルブルク出身で、ドイツと日本で活躍したロシア生まれのピアニスト、指揮者です。
※参考までに、なんと、世界的指揮者の小澤征爾さんは、日比谷公会堂で、クロイツァーがピアノを弾きながら「皇帝」を指揮したのを見て、指揮者になる決心をしたそうですよ!
そんなスゴ~いピアニストである、レオニード・クロイツァーにピアノを習うことになった経緯が知りたいですね!
調べてみましたよ!
なんと、フジコさんのお父様がレオニード・クロイツァーの友人であったそうなのです。
そして、フジコさんのお父様が日本にいた時に、レオニード・クロイツァーに、「うちの娘にピアノを教えてください。」と頼んでいたそうなのです。
お父様が頼んだ時は、レオニード・クロイツァーは、「子どもには教えない。」と断わったのだそうです。この時のフジコさんの年齢は5歳でピアノを習い始めたばかりの頃ですね~。
お父様は、日本にいたのはほんの僅かで、ストックホルムに強制送還されてしまったのですが、その後に、フジコさんのお母様が、熱心にレオニード・クロイツァー頼んで頼んで頼み倒したんです。なんとも押しが強いお母さまですね!
そして、まぁ、見事にレオニード・クロイツァーの了解をとってしまったんです!
それは、フジコさんが10歳になった時でした。
お母さまはフジコさんをレオニード・クロイツァーのもとに連れていったのです。
フジコ・ヘミングさん:レオニード・クロイツァーにピアノを褒められる!
フジコさんは、レオニード・クロイツァーの前で、ショパンの「子犬のワルツ」とバッハの「プレリュードのフーガ」を演奏したのですが、フジコさんがピアノを弾き終わると、「君は天才だ。お金なんかいらないから教えよう。」と言ってくれたのだそうです。
スゴイですね!フジコさんは、10歳の時に既に才能を認められたということなのです!
しかし、フジコさんは、母親に叱られてばかりいたので、レオニード・クロイツァーがフジコさんの演奏を褒めてくれることがとっても不思議だったようです。(*^-^*)
レオニード・クロイツァーは、フジコさんに”曲が作られた背景に思いを馳せ、ひとつひとつの音に魂を込めることの大切さ”を教えてくれたそうです。
この時の経験が、「魂のピアニスト」と呼ばれるフジコさんの原点となっています。
フジコさんは、とてつもなく、スゴイ先生からの教えを受けて育っていったのですね。
小澤征爾さんも、クロイツァーの影響を受けてその後の指揮者としての人生を歩むことになったというのですから、クラシック音楽を志す学生たちの憧れの存在で刺激を受けた人が多かったのでしょう。
フジコヘミングさん:青山学院初等科に入学,どんな思い出がある?
フジコさんは、ハーフであったため、普通の学校ではいじめられるのではないかとお母さまが心配したため、青山学院初等科に入学しました。
フジコさんは、入学してから一番ショックを受けたのは、友だちがみんなお金持ちであったことだったそうです。
フジコ・ヘミングさん:青山学院の友達はお金持ちばかりで辛かった!
当時の青山学院は、裕福な家庭のお子様たちが通う学校だったそう。
フジコさんのお友達は、みんな、自分の部屋があったそうです。
高価なおもちゃや、人形、ぬいぐるみを沢山持っていたんですって。
フジコさんの家は、お金がなかったため、クリスマスと誕生日以外にはおもちゃを買ってもらえなかったそうです。
・・・が、全くおもちゃを買ってもらえなかったのではないというのが素晴らしいと感じました!
フジコさんのお母様は、「うちは、貧乏だから。」という口癖があったそうですが、お金がないといえ、ちゃんと、クリスマスと誕生日には、母親からのプレゼントがあったのですから、その日は、格別に嬉しかったでしょうね。
おもちゃを常に買ってもらえないということで、フジコさんは、自分で余りものの布や古着を使って自分でお人形を手作りしていたそうです!
そして、今でも、その頃に作ったお人形などを大切に持っているそうですよ。
買ってもらえなかったからこそ、手作りすることに目覚めてしまったのですから、お金があったとしても、こどもには、おもちゃを与え過ぎないのがいいかもしれませんね。
自分で作り出す楽しさを子どもの頃から体験してきたのです。
それが、現在、フジコさんが自分の舞台衣装を手直ししたり、アレンジしたりするのに役立っているのです。
フジコ・ヘミングさん:学校の遠足でお弁当を食べる時が一番辛かった!
フジコ・ヘミングさんのクラスメイトは、学校の遠足には、お寿司や果物、お菓子までもってきていて、みんな楽しそうに食べていたそうです。
しかし、フジコさんのお弁当は、ご飯の上に海苔とおかかが載っていて醤油をかけただけのお弁当だったそうです。そして、おやつは、キャラメル1個でした。
フジコさんは、それがとっても恥ずかしくて、みんなから離れたところで、一人ポツンとお弁当を食べていたそうです。
おそらく、青山学院でなければ、普通のお弁当だと思うのですが。。。
でも、なんだか、その光景がなぜか鮮明に私の目に浮かんできて、私は、とっても胸がキューンとしてきてしまいましたよ。
私も、小学生の頃のお弁当の時間を思い出してしまいましたよ。
私は、見栄えのいいセンスあるお弁当を持ってきている友達が羨ましかったな~。今で言うと、インスタ映えするお弁当がうらやましかったです!
美味しいお弁当でも見栄えが悪いとお弁当を人に見られたくないって思ってしまうのです。
本当は、お弁当を作ってくさた母親に感謝しないといけないのでしょうが、当時は、そんなこと思いもしなかったです。
でも、今になると親のありがたみがとってもよくわかります。
フジコさんのスゴイところは、その当時、小学生でありながら、自分が貧乏であることに対して、友達から同情されたくなかった、そして、友達をうらやんだりしたこともなかったというのですから、私とは大違いです!
フジコさんは、小さい頃から、達観していたようなところがあるんですよね。
「うちは、おかあさんだけなんだから、」と、思っていたのだそうですよ。
あるがままを受け入れていたのですね。
子どもの頃から。
これは、スゴイ才能だと思います。
フジコ・ヘミンさん:ベルリン留学前に国籍がないことが判明!
ところが、なんてことでしょう!
フジコ・ヘミングさんは、パスポート申請時に無国籍であることが発覚したのです。
このことについて、フジコ・ヘミングさんは、お母さまが手続きを怠っていたためであると著書「希望の力」の中で綴っています。
フジコさんのお父様は、スウェーデン人でスウェーデン国籍でした。そのため、フジコさんと弟さんは日本に住んでいてもスウェーデン国籍でした。
本来であれば、フジコさんが18歳になった時に、スウェーデン国籍の継続申請をする必要があったのですが、フジコさんのお母さまは、その手続きをしていなかったのです。
日本国籍ももらえなかったため、フジコさんは、無国籍になってしまったのです。
その事実が判明してから、フジコさんのお母様は、役所に出向いて、娘も日本国籍に!と何度申請に行っても、役人の方たちは、全く認めようとせず、鼻であしらっていたそう。
なんてことでしょうか!
無国籍であると、出国することもできないって、これでは、さぞかしフジコさんは絶望のどん底にいたのでは?
なんてったって、パスポートの申請が受理されないのですから、、、。
フジコ・ヘミングさん:無国籍とわかってからどうしていたの?
しかし!ここからが、フジコさんの素晴らしいところなんです!
フジコさんは、悩んで悩んで自問自答を繰り返していました。
フジコさんは、自分が冷静な時には、「落ち着いてフジコ。これはあなたのせいじゃない。信じてピアノを続ければ、何かいい方法が、チャンスがやってくるかもしれない。」と考えることができても、コンクールで競った友人たちの留学が決まったという話が耳に入ってくると、途端にモヤモヤしてしまって、ピアノの練習をしていても全く身が入らなかったんですって。
この時のフジコさんは、自分の道が定まらず、相談できる人も見つからず、どうしていいのかもわからなかった、そんな状態だったんです。
しかし!運命の出会いが!!!!
当時、フジコさんは、原宿にある日本で一番大きな中華料理のレストランがあって、そこでピアノを弾いていたのです。
このレストランには、アメリカ人将校が家族連れで来たり、常連さんの中には、フジコさんのピアノが目当てに来てくれる人もいたそうです。
「こんなところで弾いているなんてもったいないよ。アメリカに来なよ。」って言ってくれた人もいたのです。
フジコさんは、このレストランでのアルバイトの他に、細々と小さなコンサートを開き何とか生活をしていたのですが、ある時、フジコさんの演奏を聴いた人が、フジコさんに声をかけてきたのです。
さて、いったい誰がどんな風にフジコさんに声をかけてくれたのでしょうか?
「素晴らしいビアノでした。ドイツ人である私の心にとても響いてきました。それでいながら東洋の精神性や哲学西洋にはない美学も感じられる。」
※著書『やがて鐘は鳴る』から引用
そう!この時、フジコさんに声尾をかけてくれた人が、フジコさんの演奏を聞いて感銘を受けたドイツ大使だったそうです。
とっても誠実そうな人柄であったため、フジコさんは、このドイツ大使に自分の身の上を相談したのです!!!
すると、ドイツ大使は、
「そうでしたかあなたのような場合は赤十字の難民として渡航許可を受ければいいでしょう。」
※著書『やがて鐘は鳴る』より引用
フジコさんは、この「赤十字」「難民」という言葉の意味がわからなくて、いろいろと自分でも調べたそうです。
そうしたら、渡航はもちろん、留学もできる、そして、音楽学校の奨学金もでることがわかったそうです。
フジコ・ヘミングさん:ドイツ大使のおかげで「赤十字認定難民」に認定された!
フジコさんはドイツ大使の計らいで、昭和35年に「赤十字認定難民」として認定されたため、ようやく、ベルリン国立音楽学校へと留学することができるようになりました。
それは、フジコさんが、28歳の時です!
フジコさんは、28歳の時に、ようやく、ベルリン音楽学校に留学することができたのですね。
窮地を救ってくれたのがドイツ大使だったとは、この世には、神様がちゃんといて、見ていてくれるように感じます。
偶然だったとしても、この偶然があって、フジコさんのその後の人生につながっていくのですから。
人生は、こうした運命的な出会いがあって、それぞれの出会いや決断により、繋がっていくんですね。(*^-^*)
フジコ・ヘミングさん:中耳炎で右耳の聴力なし、左耳は4割程度回復
フジコ・ヘミングさんは、今までに2回、風邪をひき中耳炎になり、聴力を失うことになりました。
右耳は聴力なし、左耳は、2年間は全く聞こえず、その後、少しずつ回復していき、現在、右耳の聴力は40%程度回復しています。
フジコ・ヘミングさん:16歳の時に中耳炎で右耳の聴力を失っていた!
フジコ・ヘミングさんは、16歳の時に中耳炎をこじらせて、右耳が聞こえなくなってしまいました。
それでも、母親の厳しい指導は続いたそうです。
そして、右耳の聴力を失っても、フジコさんは、東京藝大学に進学し、若手音楽家の登竜門である「NHK毎日コンクール」(現在の日本音楽コンクール)の他、いくつものコンクールで入賞し、ベルリン(ドイツ)への留学を志すようになっていきました。
厳しいお母さまに育てられておかげ?でこのようにメキメキとピアノの腕を上げていったのです。
フジコ・ヘミングさん:ウィーン滞在時リサイタル直前に風邪をひき左耳の聴力も失った!
フジコ・ヘミングさんは、ウイーンに住んでいた時があります。
ある未亡人の方の家に下宿していたのですが、その部屋は、小さなベッドが一つ入るだけの小さな部屋。
大家さん(未亡人)は、フジコさんの部屋に”ストーブを入れないで”と、そして、寒かったら私の部屋に来るようにといってきたのです。
フジコさんとしては、大家さんと2人で一緒の部屋にずっといるわけにもいかず、暖房のない極寒の部屋で耐えて過ごすことになってしまったのです。
そうしていたところ、ピアニストとしてようやくつかんだ夢のリサイタルの1週間前に、突然、寒気に襲われ熱がどんどん上がってきたのです。
そのリサイタルというのは、フジコさんの憧れるバーンスタイン氏が用意してくれたものだったんです。
寒気に襲われ熱が上がってきたのですが、フジコさんにはお金もなく、その日は部屋で休んでいました。
しかし、その翌日は、どうしても外せない用事があったのでバスと電車を利用し出かけたのですが、ウィーンでは、公共交通機関に暖房が入っておらず、フジコさんの体調は悪化してしまったのです。
フジコさんは、バス停近くに薬局を見つけ駆け込みます。
フジコさんには、お金がなく、薬局の人には、「明日返すので薬をください」と頼み、薬を買うことができました。
その薬は、点鼻薬だったのですが、フジコさんは、早く回復したい気持ちに駆られ両方の鼻に点鼻薬を入れたのですが、すると、すぐに鼻が詰まってしまって耳が聞こえなくなってしまったといいます。
翌日、薬局にお金を返しに行ったフジコさんは、薬局の人から健康保険がなく無料で診察してもらえる大学病院を教えてもらいました。
教えてもらった大学病院に受診したフジコさんは、医師に、ピアノリサイタルまでに耳が聞こえるようにして欲しいと話しました。医師はやってみますとは答えたものの、聴力は回復することなく、リサイタルを迎えることになってしまったのです。
耳が全く聞こえなかったのですが、リサイタルを行うことになったフジコさん。
さすがに耳が全然聞こえないので上手く弾けるはずもなく、初日だけ開催した後は、全て中止となってしましました。
リサイタルは失敗に終わり、フジコさんは、ウイーンを後にし、お父さまのいる”ストックホルム”へ行くことにしました。
ストックホルムで耳の治療に専念することにしたのです。
フジコさんの耳は、2年間全く聞こえなかったのですが、その後、少しずつ回復!
耳が全く聞こえない2年の間、フジコさんを救ってくれたのが、一緒に暮らす猫でした。
フジコさんは、猫たちを死なせるわけにはいかない!という強い思いがあったから、辛くても生きようとする力が沸いてきたのです。
そして、この頃、フジコさんは、スウェーデン国籍を取得するために父親と再会し動いていました。
フジコさんがスウェーデン国籍を取得することができたのは、フジコさんが40代になろうとした頃だったそうです。
その後、フジコさんは、ドイツに戻り、ドイツで音楽教師の資格を取得し、各地の音楽学校で教えていました。
給料が安く、それだけでは生活ができないことがあり、大きな病院の清掃係の仕事をしたこともあったそうです。
清掃だけでなく、寝たきりの人や患者さんの下の世話をすることもあったそうです。
その病院で、清掃の仕事の合間に、フジコさんは、ピアノを弾いたことがあるそうで、あっという間に人だかりができてしまったといいます。
そして、その中でも、いつもは無表情の患者さんが大粒の涙を流していたのをフジコさんは見ることに。
その時、フジコさんは、あらためて音楽の力を感じたといいます。
そんな経験がフジコさんのピアノの音色を作っているのでしょうね。
この記事のまとめと感想
フジコヘミングさんは、ベルリンで生まれ、5歳の時に日本に来たのですが、スウェーデン人の父親は強制送還されてしまいました。
それから、ずっと、お母さまは、子ども2人を育て、質素な生活を送り、家族3人は様々な困難を乗り越えていったのです。
フジコさんは、ドイツ留学前に自分が無国籍になってしまっていることを知り落胆します。しかし、その後、チャンスを掴みました。
ドイツに留学してからは、無国籍であったため、働くことができず、母親からの仕送りだけで極貧生活を続けることになりました。
フジコさんのピアノを気に入ってくれる音楽家たちがいて、レッスンにくるように言われてもお金がなくチャンスを掴むことができなかったこと、また、せっかく掴んだチャンスを極貧生活の中、風邪をひき聴力を失い演奏活動ができなくなってしまったこと、、、上げればきりがないのですが、どれ程の困難がフジコさんの身に襲い掛かったきたことでしょう。
それでも、フジコさんは、ピアノを弾くことを諦めなかったのです。
そして、フジコさんは、お母さまがお亡くなりになってから、お母さまが住んでいた住まいを引き継ぐために日本に戻り、60歳から日の目を見ることになったんですね!
フジコさんのお母さまは、フジコさんが40歳になるまで仕送りを続け、フジコさんをずーっと応援しつづけたのです!
口は悪くてヒステリー気質のお母さまでしたが、フジコさんのことをとっても愛し心配していたのでしょうね。
フジコさんは、そんなお母さまの愛情を年をとるにつれて凄ーく感じるようになってきたのだそうですよ。
ですから、フジコさんは、90歳になられてもなお、現役ピアニストとしてピアノを弾き続けることができているのでしょうね。
そんなフジコさんでしたが、92歳でお亡くなりになられました。
お亡くなりになる前まで、世界中で演奏活動をされていた、、それも、すい臓がんを抱えながら(診断されていなかった)だったと思うと、、本当に驚きます。
きっと、天国でもピアノを弾かれていることでしょうね!!
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