この記事では、「魂のピアニスト」と称されるフジコヘミングさんのお母様とお父様のこと、幼少期のピアノのレッスンのこと、そして、無国籍問題発覚からドイツ留学前までのとなどをまとめました。
フジコヘミングさんは、どんなに辛いことがあっても現状に負けず、自分に正直に生きてきたそうです。その一部分ではありますが、紐解きながら話を進めていきたいと思います。
フジコ・ヘミングさん:ドイツのベルリン生まれ、それはなぜ?
フジコさんがドイツのベルリンで生まれたのは、お母様がピアニストの卵で、当時ドイツに留学していたからです。
フジコさんのお母さまは、大月投網子(とあこ)といいます。
大月とあこさんは、東京藝大を卒業してからベルリンに留学し、そこで、お父さまと出会い結婚に至りました。
とあこさんのお相手の名前は、ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさん。
ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんは、スウェーデンの画家でした。
そして、この2人が結婚し、その後に、フジコさんと弟さんが生まれました。
ですので、フジコ・ヘミングさんの本名は、ゲオルギー・ヘミング・イングリッド・フジコといいます。
当時のドイツは、ヒトラーが政権を握り、日本も軍国主義が濃厚になりつつあった頃でした。
そんな中、フジコさん一家は、日本にやって来ました。
それは、フジコさんが3歳の時、太平洋戦争の前のことです。
フジコさんの3歳頃の思い出のひとつは、弟さんと2人で、お母さまが弾くショパンを聴きながら眠っていたことだそうです。
素敵な想い出ですね。
お母さまは、きっと、自分が好きなショパンを子どもたちに聴かせたいと思っていたのでしょうね。
そんな素敵な思いでもありつつ、しかし、フジコさんは、日本に来てから、日本人とスウェーデン人とのハーフであったため、いじめに遭うことが多く、大変苦労が多い人生を歩いていきました。
そういった経験をとおして強くたくましく成長していったのでしょう。
フジコ・ヘミングさん:お母さまはどんな人だったの?
フジコヘミングさんのお母様のことについては、宮原安春著『家族の原風景』(2004年10月30日発行)の中に記されています。
その中には、飾らない真実が記されていました。
ご本人自信の語り口調で書かれていましたので、引用させていただくことにしました。
母はね、とっても気性の激しい人で、子供たちにピアノを教えるときも怒鳴ってばかり。
「なんだ、それは、やめちまえ!」と容赦ない。
月謝を取って教えているのに、ですよ。
親から言われて通っている子にそうですから、私に対してはもっと強烈です。
すぐに「ばか!」、と罵り(ののし)り、わめく。
涙がぽろぽろ出るし、嫌でしたね。
厳しいと言うよりも、ヒステリー症だった。
終始怒鳴って、わめいている。
うるさくてかなわない。
そもそも、実家がお金持ちだった母が日本を離れてドイツに留学したのも、こんなヒステリー娘は結婚してくれる日本人がいないから、ドイツに送れば誰か捕まえてくれるだろう、と狙ったらしいですよ。
父がよくもあんな母と結婚したものだと、私は感心しているんです。
~宮原安春著『家族の原風景』より引用~
フジコさんは、自分に正直で、自分の母親のことについて、そのままズバッ!と表現されているところにとっても驚かされます。
いろいろと苦労をしてきたフジコさんは、自分の人生に対して、恥ずかしいだとか、隠したいとか、そういう次元でのことは一切なく、人生そのもの全てを受け入れているんだと強く感じました。
両親の結婚をとおして、小さい頃から、恋愛や結婚についても、いろいろと考えることが多かったのでしょうね。
フジコ・ヘミングさん:母のスパルタ教育を受け才能を開花!
フジコさんは、4歳の時にピアノを始めました。
フジコさんのお母さまがレッスンをしていましたが、それはそれは、大変厳しくて一日6時間、怒鳴られてばかりの毎日だったといいます。
フジコヘミングさん:10歳からピアノをレオニード・クロイツァーに習う
その後、フジコさんは、10歳の時、ピアニストのレオニード・クロイツァーに習い始めました。
レオニード・クロイツァーは、フジコさんのピアノをとても褒めてくれ、フジコさんに、「曲が作られた背景に思いを馳せ、ひとつひとつの音に魂を込めること」の大切さを教えてくれたそうです。
この時の経験が、「魂のピアニスト」と呼ばれるフジコさんの原点となっています。
レオニード・クロイツァー( 1884年(1883年説もある)3月13日、サンクトペテルブルク – 1953年10月30日、東京都)は、ドイツと日本で活躍したロシア生まれのピアニスト、指揮者です。
※ 指揮者の小澤征爾さんは、日比谷公会堂で、クロイツァーがピアノを弾きながら「皇帝」を指揮したのを見て、指揮者になる決心をしたそうです。
《ウィキペディア引用》
フジコさんは、とてつもなく、スゴイ先生からの教えを受けて育っていったのですね。
小澤征爾さんも、クロイツァーの影響を受けてその後の指揮者としての人生を歩むことになったというのですから、クラシック音楽を志す学生たちの憧れの存在で刺激を受けた人が多かったのでしょうね。
フジコヘミングさん:青山学院初等科に入学、どんな思い出があるの?
フジコさんは、ハーフであったため、普通の学校ではいじめられるのではないかとお母さまが心配したため、青山学院初等科に入学しました。
フジコさんは、入学してから一番ショックを受けたのは、友だちがみんなお金持ちであったことだったそうです。
フジコさん:友達はお金持ちばかりで辛かった!
当時の青山学院は、裕福な家庭のお子様たちが通う学校だったそう。
フジコさんのお友達は、みんな、自分の部屋があったそうです。
高価なおもちゃや、人形、ぬいぐるみを沢山持っていたんですって。
フジコさんの家は、お金がなかったため、クリスマスと誕生日以外にはおもちゃを買ってもらえなかったそうです。
フジコさんのお母様の口癖は「うちは、貧乏だから。」というものでした。
その代わり、フジコさんは、自分で余りものの布や古着を使って自分でお人形を手作りしていたそうですよ!
そして、今でも、その頃に作ったお人形などを大切に持っているそうです。
子どもって、与えられなければ、自分で作りだしていくものですね。
わたしは、フジコさんのたくましさを感じました。
フジコさん:遠足のお弁当を食べる時が一番辛かった!でも楽しく遊んだ
フジコさんのクラスメイトは、お寿司や果物、お菓子までもってきていて、みんな楽しそうに食べていたそうですが、フジコさんのお弁当は、ご飯の上に海苔とおかかが載っていて醤油をかけただけのお弁当だったそうです。
そして、おやつは、キャラメル1個でした。
フジコさんは、それがとっても恥ずかしくて、みんなから離れたところで、一人ポツンとお弁当を食べていたそうです。
なんだか、わたしは、胸がキューンとしてきてしまいましたよ。
わたしも、昔、小学生の頃、お弁当の時間があったので、見栄えのいいお弁当を持ってきている友達が羨ましかったですし、見栄えが悪いとお弁当を人に見られたくないって思ってました。
本当は、感謝しないといけないのでしょうが、今になると親のありがたみがよくわかります。
フジコさんのスゴイところは、その当時、自分が貧乏であることに対して、友達から同情されたくなかった、そして、友達をうらやんだりしたこともなかったというのですから、私とは大違いです!
フジコさんは、小さい頃から、達観していたようなところがあったのだと思います。
「うちは、おかあさんだけなんだから、」と、思っていたのだそうです。
あるがままを受け入れていたのですね。
子どもの頃から。
フジコ・ヘミングさん:16歳の時に右耳の聴力を失っていた!
フジコ・ヘミングは、16歳の時に中耳炎をこじらせて、右耳が聞こえなくなってしまいました。
それでも、母親の厳しい指導は続いたそうです。
フジコさんは、そんなお母さまをどんな風に思っていたのでしょうね。
フジコヘミングさん:音大進学、コンクールで入賞、留学を志すように
そんな厳しいお母さまに育てられておかげ?で、逆境に負けない強さを身に着けたフジコさんは、東京藝大学に進学することができました。
その後、フジコさんは、若手音楽家の登竜門である「NHK毎日コンクール」(現在の日本音楽コンクール)の他、いくつものコンクールで入賞し、ベルリン(ドイツ)への留学を志すようになっていきました。
フジコ・ヘミンさん:ベルリンへ留学前に国籍がないことが判明!
ところが、なんてことでしょう!
フジコ・ヘミングさんは、パスポート申請時に無国籍であることが発覚したのです。
このことについて、フジコ・ヘミングさんは、お母さまが手続きを怠っていたためであると著書「希望の力」の中で綴っています。
フジコさんのお父様は、スウェーデン人でスウェーデン国籍でした。そのため、フジコさんと弟さんは日本に住んでいてもスウェーデン国籍でした。
本来であれば、フジコさんが18歳になった時に、スウェーデン国籍の継続申請をする必要があったのですが、フジコさんのお母さまは、その手続きをしていなかったのです。
日本国籍ももらえなかったため、フジコさんは、無国籍になってしまったのです。
なんてことでしょうか!
無国籍であると、出国することもできないのだそうです。
この時、フジコさんを助けてくれたのは、フジコさんの演奏を聞いて感銘を受けたドイツ大使だったそうです。
フジコさん:ドイツ大使のおかげで「赤十字認定難民」に
フジコさんはドイツ大使の計らいで、昭和35年に「赤十字認定難民」として認定されたため、ようやく、ベルリン国立音楽学校へと留学することができるようになりました。
それは、フジコさんが、28歳の時です!
フジコさんは、28歳の時に、ようやく、ベルリン音楽学校に留学することができたのですね。
窮地を救ってくれたのがドイツ大使だったとは、この世には、神様がちゃんといて、見ていてくれるように感じます。
偶然だったとしても、この偶然があって、フジコさんのその後の人生につながっていくのですから。
人生は、こうした運命的な出会いがあって、それぞれの出会いや決断により、繋がっていくんですね。(*^-^*)
フジコ・ヘミングさん:お父さまはどんな人だったの?
フジコさんは、お父さまの記憶はほとんどないそうです。
しかし、あれが父かもしれないというシーンは視覚的に残っているそうですよ。
その思い出とは、クリスマスの日に、サンタクロースの洋服を着た痩せた若い男性が玄関から入ってきたそうで、フジコさんは、怖くて怖くて大声で泣いてしまったのだそう。
その時の男性が父親のイメージであると語っています。
フジコさんは、お父様のことについても下記のとおり語ってみえますので紹介させていただきます。
父はちょっと不良じみた所がある男でね、そこが魅力でもあったのでしょう。
母の品物を質屋に入れちゃったり、売り払ってしまったり。
母が恋に落ちたベルリンでは、ポスターなどを書くデザイナーでしたが、言葉もできない日本に来て仕事はろくにない辛かったと思いますよ。
でも、ハンサムでしたから、女性にはモテたようです。
若かったし、すぐに浮気する女たらし。
でも、どっかの女と一二週間ほど一緒に暮らしたとしても、必ず家に帰って来る人だった。
母は、「男ってそういうものだから、あんまり追い詰めないようにしていれば、逃げないからね。」と教えてくれました。
スウェーデン人だから、一目で外国人だとわかる。
このため日本の特別高等警察にいつも見張られていた。
母は日本人なのに外国人と結婚したので、やはり特攻に付きまとわれ、いじめられていたことを、子どもだった私も知ってます。
父は、滞日機関で帰ってしまいました。
なぜ、私と日本で生まれた弟を置いて本国に帰ってしまったのかを考えると特攻に常に見張られていることが煩わしかったのでしょう。
一日中わめき騒いでいる母のような女と一緒に居ることが嫌になったこともある。
でも、スウェーデンから手紙が時々届いて、「仕事が見つかったから迎えに来るから」と書いていたようです。
離婚する気はなく、結局愛していたんだと思いますね。
~宮原安春著『家族の原風景』より引用~
フジコさんのお母さまとお父さまは、時代の流れで別々の暮らしを余儀なくされたということだったのですね。
お父さんは、画家といっても、漫画を描いていて、朝日イブニングニュースに漫画を連載していた時期があったそうです。
その時に、お父様は、日本の社会をあざ笑ったかのような漫画をいっぱい描いていたというのです。ですから、秘密警察から目を付けられ、隣の家まで警察が聞き込みに来て、フジコさんが5歳の時にスウェーデンに強制送還させられてしまったというのです。
父親が強制送還されたという事実は、フジコさんは後から聞いたそうです。
後から事実を知ることは、よくあることだと思います。子どもに話すことではないこともありますし、話しても理解できないこともありますし。
フジコさんは、父親は勝手に自分たちを見放してしまったのではなかったんだ、ということがわかっただけでも救われた気持ちになったのではないかと思います。
どこかホットしたような気持ちになったのでは。
そして、そんな当時の事情を大人になってから知ったフジコさんは、きっと、お父さんにも会って話がしたいって思ったのかもしれないですね。
お父さんは、当時、どんな思いをして日本で暮らしていたのだとか。
フジコさんは、お母さまもいじめに遭いながら、フジコさんや弟さんを女手ひとりで懸命に育ててくれていたことを子どもながらにも理解していて、だからこそ、自分もいじめに遭っても負けずに前を向いて歩き続けることができたんだと、そんなふうに感じました。
フジコさんのお母様は、フジコさんがドイツ留学してから40歳になるぐらいまで、仕送りをしてくれていたそうですよ。母の愛ですね~。じーんときます。

フジコヘミングさんの人生のほんの助走、一握りのことに過ぎないのですが、
90歳になられてもなお、現役ピアニストとしてピアノを弾き続けているその原動力がここにあるのだということを強く感じた次第です。
フジコさんのピアノの音色は全てに感謝しているといった音色。
フジコさんの生い立ちを知ることで、よりそんなピアノの音色に感じ入ることができそうです!
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