この記事を読むと、西川悟平さんのジストニア発症後の人生がわかります。ジストニアという難病との闘いです。その苦しみの中で、悟平さんは、どのように自分の病気と向き合っていったのでしょうか?
西川悟平さんのジストニア発症は、ニューヨークに渡ってからすぐだった!
西川悟平さんは、難病ジストニアを発症し、5人の医師から、「一生プロとしてピアノを弾くことはできない!」と宣告を受けたのです。
しかし、西川さんは、プロのピアニストとして演奏活動ができるようになるまで回復することができたのです。
ここでは、西川悟平さんのニューヨークでの活動の様子や思い、そして、自分の手の異変に気付いてからジストニアと診断されリハビリを行っていく過程をお話ししていきたいと思います。
西川悟平さん;手の異変に気付く
西川悟平さんは、ニューヨークでデビューできたものの、ピアノを始めた年齢が遅かったという劣等感に苛まれ、明け方まで練習する日々が続いていたそうです。
悟平さん曰く、「ニューヨークは、200か国の頂点の人が来ているところ」なのだそうです。
その中で演奏依頼を受けてプロのピアニストとして生きていくのは並大抵のことではないのです。
悟平さんは、「自分は金メッキだからいずれは剥がれ落ちてしまう」という不安があったと語っています。
それでも、悟平さんは、懸命に練習を重ねた結果、次第にコンサートの依頼がくるようになっていったのです。
ようやくコンサートの依頼が来るようになり、ああ、これで少し軌道に乗ってきたなと思ったところで、思わぬことが起こったのです。
それは、ある日突然、ピアノを弾く時に、左手の硬直を感じたことでした。
悟平さんは、初めは「あれ?筋肉痛かな~」と思ったそうです。
しかし、左手の硬直を感じるようになってからは、練習しても練習しても弾ける曲がどんどん弾けなくなっていったのだそうです。
それでも、なお、悟平さんは、「練習不足かな?」と思いさらに練習することもあったといいます。
この時の西川悟平さんは、ニューヨークで夢を掴みこれから花開くまさに絶頂期であり、このチャンスを絶対に逃したくないという強い思いから、ピアノ演奏をやめる決断はしませんでした。
どんなに不調であっても。
その時の悟平さんは、演奏がぐちゃぐちゃになることがわかっているのに、お客さんの前に出ていく時が一番怖かった、、、。と語っています。
そして、コンサートの本番は、死刑台に行くような感じだった、、、。のだそうです。
こんなに悲痛な思いをしてまで、コンサートを続けていたのですね。
そして、悟平さんは、何とか手の硬直を治したいと思い、マッサージや心理カウンセリングなどあらゆる手を尽くしても効果は全くありませんでした。
それどころか、左手の硬直が始まってから1年たったころ、右手にも指の曲がりが出てきたのです。
それは、ピアノを弾こうとすると右指が内側に曲がってしまう症状でした。
日常生活では、指が曲がることはなかったのです。
ピアノを弾こうとする時だけに、、、。
西川梧平さん;ブラッドショー氏に手の異変を気づかれた!
梧平さんが弾くピアノの音からブラッドショー氏は異変に気づいたのです。
そのため、梧平さんは、右手が3本、左手が2本しか動かないことをブラッドショー氏に打ち明けたそうです。
その時に、ブラッドショー氏は、それなら、右で和音、左手でベース音が弾けるね!1本でも動くならピアノを弾き続けなさい!と悟平さんを励ましたそうです。
ブラッドショー氏のこの言葉に悟平さんは支えられ、ピアノを続けていくことができたのだと思います。
もともと、ブラッドショー氏は梧平さんに、テクニック的にすごいピアニストは沢山いる、そうではなく、一音一音を大切に弾いていくことが大事であると指導していたのです。
「音楽はテクニックよりも大事なことがある」と恩師であるブラッドショー氏は梧平さんに伝えていたのです。
ピアノを弾くことがどれ程悟平さんにとって大切なことなのかをわかっているブラッドショー氏のその言葉が胸に染み入ります。
悟平さんにとってピアノを弾くことは、生きることそのものを意味することだったのですから。
西川悟平さん;発症から2年でジストニアの診断
最初の頃は、日常生活には支障がなく、ピアノを弾く時だけに指が硬直し曲がる症状が出ていたのですが、
2年後には、割りばしを手で握ると折れるほどの強い力で指が曲がってしまうようになりました。
そして、発症から2年経過した2001年に、両手の演奏機能を完全に失いました。
その時、ようやく「ジストニア」と診断され、5名の医師に「不治の病」と断言されたのです。
悟平さんは、その時のことを下記のように語っています。
病院から電話がかかってきて、医師から「残りの人生全部ピアノを弾くことができまん。」と宣告を受けたが、その後の記憶がないんです。
その後の記憶がないという悟平さん。
人間は耐えられない程の辛いことがあると記憶が消されてしまうのです。
かなりの衝撃であったと思います。
しかし、悟平さんは、
「一瞬だけ暗闇をさまよった」
とさらりと語っているのです。
ものすごいショックでうつ状態になり手首を一度だけ切ってみたことがあるそうですが、痛くてやめたそうです。
一番つらかったことは、自分のアイデンティティを失ったこと。ピアノを弾けなくなって自分は何者なんだと思った。
悟平さんは、「今までピアノに費やしてきた時間はいったい何だったんだろう?」という思いが
脳裏を駆け巡ったそうです。
中学3年生から今までの間の時間を全てピアノに注ぎ込んできたのですから。
西川悟平さん:お父様の言葉に救われた!
悟平さんは、一番精神的に大変な時に、お父様に電話をしたそうです。
両手が使えなくなりピアノが弾けなくなったことをお父さんに話すと、お父様は、「それで、生殖機能は大丈夫なのか?」と、思わぬ返事を返してきたそうです。
こんな時にもユーモアで返すお父様なのです。(*^-^*)
こんな時こそ、ユーモアが必要なんですよね~。
そこで、悟平さんは、思わず笑ってしまったとのことです。
お父様は、少しでも悟平さんを元気づけようとして言った言葉だそうですが、親というものは有難いですね。
悟平さんは、お父様のこの言葉に一番救われたそうです。
ジーンとくるお話しです。
西川悟平さん;ピアノが弾けなくなってからの生活は?
悟平さんは、収入がなくなり、掃除や民泊の運営仕事を掛け持ち生計をたてていました。
ブラッドショー氏に金銭的に迷惑をかけてはいけないと思い、豪邸を出て、グリニッジビレッジのわずか2畳半の狭い部屋に引っ越しをしての生活をすることにしたそうです。
悟平さんは、その部屋のことを「棺桶ルーム」と呼んでいたそうです。
寝るスペースさえあれば良かったので、二段ベッドの上段に荷物を押し込んで、下段で寝起きする生活を送っていました。
そして、週に1回、ブラッドショー氏と過ごし、指が動く時にだけ、ピアノに触れ、動かない時はコンサートのビデオを見るなどしていたそうです。
ブラッドショー氏は、本当に素晴らしい先生だったのですね。
そこにはきっと温かい時間があったのだと想像しています。
がむしゃらに生きてきた悟平さんは、ここで一休みすることになっていたのかも。
西川悟平さん;ピアノが弾けるようになったきっかけは?
悟平さんは、5人の医師から「一生プロとしてはピアノが弾けない」と宣告を受けてから、「それならば、自分がその例外になればいいんだ!」と考えるようになったそうです。
人間、崖っぷちに立たされた時に、本領発揮できるかできないかですね。
小さい頃から一度思い込んだらとことん突き進む悟平さんですから、絶対不可能と言われてきてもそれを可能にしてきた梧平さんだから、気持ちを切り替えて再スタートを切ることができたのでしょうね!!!!
西川悟平さん:独自のリハビリを開始した!
こうして西川悟平のリハビリ生活は始まりました。
悟平さんは、「1本1本の指が曲がったら、その指を再教育すればいい」と考えて、じーっと押さえるようにしていきました。
西川悟平さん:1本指からの練習を開始した!
その時に動く指だけを使っての練習をしていたそうで、初めは「1本指」から初めていったのです。
そして、徐々に「5本指」が動くようになると、「5本も動くようになった!」と動く方の指に自然と意識が向くようになっていったそうです。
悟平さんは、動く指に「ありがとう!」と感謝の気持ちを伝えていたそうです。
それからしばらくたったある時、知り合いから「音楽教室で子どもたちに教えて欲しい」と頼まれたのです。
その知り合いというのは、悟平さんが病気になる前の演奏を聴いてファンになったという人なのです。
素敵なファンですよね~。
ちょうどいいタイミングにお誘いがあって西川悟平さんの道が開けていくのでした。(*^-^*)
西川悟平さん;幼稚園できらきら星を弾く!
当日、悟平さんは、子どもたちにピアノを弾いてとせがまれ、「きらきら星」を弾いたのです。
そうしたら、子どもたちは、悟平さんの曲がった指のことは全く気にしておらず、純粋に音楽を楽しみ、とっても喜んでくれたのです。
悟平さんは、子どもたちが喜ぶ姿を見て感動し、それから考え方が一変したのでした。
「指が曲がっていようが音楽には関係ないんだ!」
ということを子どもたちから教えてもらったと。
西川悟平さん;「自分は子どもたちに助けられた!」
悟平さんは、子どもたちに喜んでもらえることが嬉しい自分に気づいたのです。
そして、悟平さんは、ピアノを弾いて番楽しい、嬉しいと思う気持ちを忘れていた自分に気が付いたそうです。
この気持ちを大切にしてピアノをまた弾いていきたいと思ったそうです。
自分が楽しんで演奏すれば、聴いている人も楽しい気持ちになりますものね。(*^-^*)
西川悟平さん;「よし、今動く指で演奏をしていこう!」と決心したのです。(#^^#)
西川悟平さん;7年かけて1曲が弾けるように(*^-^*)
すごい根性ありますよね。
常に人生賭けて取り組んでいる悟平さんなのです。
パッションの人です!
ブラッドショー氏がスカウトしただけあります!
はじめてひけるようになった思い入れの強い曲は?
「プーランク 即興曲15番」
この曲は、エディット・ピアフを讃える曲で、とても甘く切ないドラマティックなんです。
エディット・ピアフはフランスのシャンソン歌手ですが、その声はピアフの人生を物語っているかのように傷心的なのです。
私は、悟平さんがこの曲を始めに選んだ理由が分かるような気がしました。
コロナ禍が収まった後には、悟平さんのプーランクを生演奏で聴いてみたいのです!
悟平さんは、この一曲が弾けるようになってから、次々と他の曲も弾けるようになっていったそうです。
目の前の課題に精一杯取り組み続けることって大事なんですね。
西川悟平さん;7本の指を使ってピアノが弾けるようになる
動く指は、右手が5本、左手が2本の合計7本。
悟平さんは、この時から、動く7本の指を使ってどうやって駆使して音楽を表現していくかの試行錯誤の時期に入っていったのです。
一音一音の音色にこだわって、弾き方は、腕をクロスするなど。
この試行錯誤を楽しめるようになっていました。
10本指の時は、そんなことを考えたこともなかったそうです。
ただ、カッコよく弾きたいという思いだったそうです。
西川悟平さん;ジストニア発症から8年目には?
イタリアの国際音楽フェスティバルでヨーロッパデビューを果たしたのです。
それも、ジストニアという病気を伏せて!
病気であることを伏せての演奏は、コスモ・ブオーノ氏の提案だったそうです。
コスモ・ブオーノ氏は、梧平さんの再起を願っていたのだと思います。
悟平さんのピアノを障害を持っているからという先入観を持って音楽を聴いて欲しくなかったからでしょう。
悟平さんの演奏が終わると、スタンディングオベーションが起こったそううですが、その時に、コスモ・ブオーノ氏が舞台に出てきて、「悟平は、実は、ジストニアを患い7本の指で演奏をしたのだ」ということを告げたのだそうです。
悟平さんは、この時、病気を伏せて演奏したのにも関わらず、聴衆からのスタンディングオベーションで、再起への手ごたえを感じたといいます。
さすが、コスモ・ブオーノ氏!
悟平さんが次のステップに進んでいけるようなチャンスを的確な時期に用意してくれるという素晴らしさ!!!!!
そして、悟平さん自ら、この時が一番いい演奏ができたのだと言っています!
なんということでしょう!!!!!!!!!
私が特に驚いたのは、悟平さんが7年かけてプーランクの即興曲15番が弾けるようになり、その1年後にヨーロッパデビューなんて、、、。信じられませんね。
この時の演奏が一番良かったというのは、きっと、再起をかけて臨んだからでしょうね。
そういう時って、火事場のバカ力じゃないけど、すごい力を発揮することがあるんですよね。
そんな時の「プーランク即興曲15番」は、どんなにか感動的であったことでしょうか。
ここからまた悟平さんの新たなプロのピアニスト人生が始まったのだと思うと、まさに、映画の世界だな~と感極まってしまうのであります。(#^^#)
映画化したいと思いますものね~。
難病ジストニアってどんな病気なの?研究者;古屋晋一氏によると
ジストニア研究の第一人者である古屋晋一さんのお言葉を拝借したいと思います。
古屋晋一氏が上智大学理工学部情報理工学科の准教授だった頃に、ピアニストの脳神経疾患「局所性ジストニア」の新しい治療法を開発し、2014年に論文を発表されています。
局所性ジストニアは、ある特定の動きをするときにだけみられます。その動きに必要な筋肉が過度に収縮したり、また、自分の意図とは違う別の筋肉が動いたりする病気です。
ピアニストやギタリストなどの弦楽器奏者の指、管楽器奏者の唇、ドラマーの足、歌手の喉など頻回に使い、しかも細かい動きを要求される部位ならば、どこでも発症するのが特徴です。
作曲家のシューマンがこの疾患によってピアニストとしての生活をあきらめたといわれています。
また、音楽家以外にも、例えば美容師や漫画家の手にも起こります。
〔古屋晋一氏 2014年 研究論文より抜粋〕
〔ジストニアによる大脳の変化について〕
局所性ジストニアに罹ったピアニストの脳を見ると、運動野や運動前野、感覚野、深部の大脳基底核といった運動を制御する部位に、解剖学的、あるいは機能的な変化が起こっているそうなのです。
そして、そのために、運動野から筋肉への出力が影響を受けて、動かしたい指が動かない、あるいは動かさなくてもよい指の動きを止められないという症状がでるとのことでした。
〔音楽家のジストニア発症率と発症のリスクについて〕
~ピアニストの場合、以下に該当する人の発症リスクが高いそうです~
①習慣的に4時間以上の練習を続ける人
②演奏法を変えたり、指導者を替えたりした直後
③7~8歳以後にピアノを始めた人
④難しい曲への挑戦を好む人
⑤手指の腱の結合が太い人
⑥家族にも局所性ジストニアの人がいる、など
※即興演奏が許されるジャズピアニストには、ほとんどジストニアを発症する人が見られないこともわかっているとのこと。
※音楽家全体での発症率は、少なくても2%と推定されているそうです。
〔古屋晋一氏 2014年 研究論文より抜粋〕
こうしてみますと、西川悟平さんの場合は、①②③④に該当しており、ジストニア発症の高リスク群であったことが分かると思います。
しかし、1974年生まれの西川悟平さんの時代には、日本においては、殆ど認知されていなかった病気なのです。
どの時代に生まれ育ったのかによっても人生は大きく左右されますね。
このようなリスクを初めから知っていたら、怖くて夢に向かって進めない人もいると思いますし、それを知った上でなお自分の夢を追いかけていく人もいるかもしれない、、、、、。
あくまで、これは結果論であって、結果を予測して初めから夢に向かっていかない人生の選択も悲しいことですから、、、、。
結局は、自分の思うがまま、流れていくのですね。
人生って不思議なものですね。(#^^#)
美空ひばりの歌を思い出します。
「川の流れのように」を。。。
古屋晋一さんについて詳しく知りたい方は、こちらの記事へどうぞ
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古屋晋一さん;ピアニストの病気,ジストニア研究第一人者:反田恭平さんも協力🎵 | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net)
西川悟平さん:7本の指でピアノを弾くようになってから、ピアノの表現力は一段と高まり世界中から演奏のオファーが入るように!
西川悟平さんは、10年以上にわたるリハビリにより、現在、「奇跡のピアニスト」として世界で活躍しています。
もちろん、指の関係で弾けない曲もあるそうですが、悟平さんが弾けるようにと友人である音楽家が作曲も手掛けています。
音楽は自由に表現すること、音を楽しむことが基本!
ピアニストとして復帰するためのリハビリを悟平さんは自ら考案して日々努力し、また、それを支えてくれた人たちにも恵まれました。
病気をしてからも、スポンサーが途切れることは一度もなかったそうなのです。
悟平さんのように困難な時でも前を向いて走っていれば、「何か手助けできることはないかな」と思う支援者が自然と出てきますよね。
そんな悟平さんを応援したいと思うファンは、これから先もたくさん出てくると思います!
悟平さんは、10本の指で演奏していた頃には気づかなかった、一音一音を大切に弾くということに集中して演奏をするようになったのです。
そのことに気づいてからは、毎日毎日動く指に感謝をしながらピアノを弾いているのです。
そういった悟平さんが奏でるピアノの音色に世界中の人が魅了されてしまっているのです!
世界中の聴衆の💛を射止めてしまった西川悟平さんは、次への夢に向かっていくのでした。
続きの記事は、こちらです(^_-)-☆
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西川悟平; ピアニスト,パラリンピック閉会式出演,6年前から夢を語り,依頼主は誰? | アラカン女子Haruharuの音楽のんびりLOVEライフ (ongakulove.net)
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